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河村瑞賢 エピソード その一

昨日の続きです。

13才で江戸に出てきた瑞賢でしたが、元服後は十右衛門と名乗っていました。

江戸では荷車引き(車力しゃりき)を細々とやり、苗字を車力、車力十右衛門と名乗っていた

ようです。

なかなか思ったようにはうだつが上がらず、思い悩んでいた寛永18年(1641年)に寛永の大火

が起き、ようやく発展し始めた江戸の街の多くが焼失してしまいました。

それで十右衛門は焼け野原になった江戸にいてもしかたがないと、家財をすべて売って上方へ

旅立つことにしました。十右衛門が24歳になったころです。

家康の江戸入府が1590年といいますから、1641年時点ではまだまだ上方(大坂京都)

の方が都会だったのでしょうか。

それで江戸に見切りをつけて上方へ上ろうとしたのでしょう。

ところがその途中の小田原の宿で一人の翁と出会い人生の転機を迎えます。

十右衛門が身の上を話すと、その翁は十右衛門が大変いい骨相をしているので、かならず

大成するというのです。

そしてこれからは江戸が上方よりもきっと栄えるので、もういちど江戸に戻るよう言われます。

さらに名前も『瑞賢』と変えるように勧められます。

それで十右衛門は素直にもその翁の言う通り、名前も車力瑞賢と変え、江戸の戻ることにして

しまいます。

そして品川まで戻ってくるのですが、季節がちょうど盂蘭盆(うらぼん)の後で精霊船に供えられた

野菜がうち捨てられ崖下に漂流しているのを見つけました。

そこで、乞食に僅かな銭を与えてこれを集め古桶を買って塩漬けにし、昼時の工事現場の

人夫に売って利益を上げたそうです。 (これがエピソードその一です。)

その金を元手にしばらくは漬物を売り歩いていましたが、その間にの普請方の役人と知り合い、

工事現場で働くことになります。

瑞賢はここですぐに頭角を現します。

工事現場に分業制を導入したり、人夫の働き方を数値的・合理的に差配する才覚を現わし

人夫頭になるまで時間はかからなかったようです。

瑞賢はこの時期に、この後の本業となる土木の知識・経験を得ることになります。


《参考文献》
 日本歴史学会編集 古田良一著 『河村瑞賢』 (吉川弘文館)
 長内国俊著  『河村瑞賢 みちのく廻船改革』 (文芸社)





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by sakenihon | 2009-01-21 01:28 | 日本の歴史  

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