今も昔も”宮仕え”はつらい!
江戸時代は”士農工商”の階級社会で武士階級が農民や町民階級を虐げていた時代、と数十年前に中学校の社会科で習ったように思います。
しかし、そうゆう単純なものではなかった?と思うことが最近時々あります。
江戸東京博物館でも同じような印象をがありました。
【大名の格式】
大名の格式というコーナーが印象的でした。
「大名」と一口にいってもピンキリだったようです。
その格式の差が表れるのが江戸城で将軍に拝謁するときの「待合室」だったとか・・・
格式によって待合室が7段階以上に分かれていたそうです。
大廊下の上之部屋 ⇒ 御三家・御三郷(田安家・一橋家・清水家)
大廊下の下之部屋 ⇒ 金沢・前田、鹿児島・島津、越前・松平 など
溜の間 ⇒ 会津若松・高松・桑名の各松平家、井伊・酒井などの家門、順家門。
大広間 ⇒ 溜の間以外の家門の11万石以上の外様
帝鑑の間 ⇒ 城主格以上の譜代大名60家
柳の間 ⇒ 大広間詰めの大名の分家及び10万石未満の外様大名
雁の間 ⇒ 溜の間・帝鑑の間 以外の城主以上の譜代大名
菊の間 ⇒ 無城の譜代大名
待合室だけでなく、将軍拝謁の席次も家格で決まるし、何かにつけて家格で左右されるのが武家の社会だったようです。現在日本のサラリーマンよりもずっと厳しい格差社会だったようです。
さらにそれは努力しても変わりようがない格差で、何もなくて現状維持、何かあったらお家断絶・お取りつぶしなわけです。
大名がこんな感じですから、その家臣にはもっと厳しいものがあったのだろうと想像します。
江戸時代の階級制は士農工商よりも、武家社会の中の階級の格差の方が厳しかったのかな?
江戸時代の宮仕えのほうが今のサラリーマンよりもストレスは大きかったのかも・・・
そんなストレスが積み重なって、松の廊下~赤穂浪士の事件なんかも起こったんでしょうね。
江戸から明治への転換も武家社会の中の内紛が発端であって、庶民の反乱によるものではなかったですね。その意味でフランス革命などとは違いますね。
幕末期の一般庶民は江戸幕府について、どういうふうに思っていたんでしょうかね。
虐げられていたはずの町民・農民の方がけっこう自由で活気ある生活をおくっていたのでは?
というあたりのことを明日続けます。
ところで、上に並んだ藩名を見ますと、有力な藩にはいい酒ができていたんだなあ、
と思いませんか?
やはり、有力大名は米どころを抑えていたので、お酒もいいものができたのでしょうか。
そういえば酒蔵巡りをしていると、立派なお城があった城下町が多いですなあ・・・・
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by sakenihon | 2009-04-16 02:34 | 日本の歴史