河村瑞賢 西廻り航路開拓 その一
1671年に福島県の阿武隈川河口の荒浜と江戸の全行程を海運で結ぶ『東廻り航路』の開拓を成し遂げた瑞賢でしたが、その翌年1672年(寛文12年)には、今度は出羽国(現在の山形県酒田市)から江戸への米の輸送を命じられます。
しかし、日本海側には室町時代からすでに北海道~敦賀間の航路ができていました。
太平洋側に比べて航海技術も優れていたようです。
北海道を目指す上り船の主な積み荷はお米。(蝦夷では米は採れませんでした。)
また下り船は昆布・いりこ・干鮑・ニシン加工品や肥料用に大量な魚肥などを運んでました。
航路は北海道から津軽・秋田・佐渡・能登などを経て敦賀付近まで運びます。
敦賀・小浜付近で陸路に変わり、馬で琵琶湖北岸まで運びます。
さらに琵琶湖の湖上海運を利用しながら伊勢・京都・大阪へと運んでいました。
【北前船の航路】 ピンク=北前船
(ちょっと脱線1)
もし、この北前船による商品の移動がなければ、京料理に昆布が使われていなかったかも。
それ以前に”京料理”が存在しなかったかもしれませんね。
しかし、遥か昔からこの海運はあったようです。
敦賀を経て、伊勢神宮へも蝦夷の海産物が奉納されていたのです。
その結果、お正月の鏡餅や結婚の結納品には昆布・スルメ・干し鮑が付き物ですね。
蝦夷の貴重な海産物は神事には欠かせないものだったんです。
もちろん神事には御神酒も欠かせませんね・・・・
(ちょっと脱線2)
福島県の代表的な酒の肴に「ニシンの山椒漬け」がありますね。
のんべえ、大好きです。
会津若松の居酒屋で”自家製ニシンの山椒漬け”で飲んだ”泉川”は旨かった~~~
福島の山間部でニシンを使った料理が存在するのも、山形県酒田付近で降ろされた蝦夷の身欠きニシンが陸路で福島へ流通したためですね。
北前船は輸送代金を稼ぐ運送業でありません。
場所による商品価値の違い、相場を利用して売買で儲ける『動く総合商社』でした。
北前船は江戸期から明治期まで活躍します。
その裏には近江商人の存在がありました。
早くは信長・秀吉の時代から蝦夷を目指した近江商人がいたそうです。
琵琶湖の東岸、彦根・近江八幡、西岸の高島郡付近からも蝦夷へ向かったり、後には自ら北前船の船主となった商人が活躍し、日本海を取り巻く貿易を発達させました。
このような状況の中で、幕府は近江商人や既存の船主ではなく、河村瑞賢に酒田からの米の輸送を依頼したのでしょう?
その理由としては、
① 時間短縮 いったん陸路を通り琵琶湖・大阪と経由するので時間がかかっていたため。
② コストの削減 陸路の途中の積み替えの度に米がこぼれたり、通過する領地主への手数料が掛っていたため、陸路を省略したかった。
③ 安全な航行 太平洋ほどではなくとも船の難破があり、もっと確実な航海にしたかった。
などの理由が考えられます。
つまり、敦賀からの陸路は使わず、直接船で下関を廻って瀬戸内海を抜け、大阪から江戸まで安全に運べというミッションです。
それまでに挑戦した人はいたのですが、満足がゆく結果にはならなかったそうです。
それにしても、当時は正確な日本地図もなく、どこにどんな港があるのかなどの情報も皆無。
それどころか、瑞賢は日本海さえ見たこともなかったはずです。
はるかに遠い西国まで関係してくるミッションです。
よく引き受けたものです。
”感心”を通りこして、呆れてしまいます。
が、瑞賢はこのミッションも何と1年でやってのけるんです!
宇宙人か?
注) 「北前船」の”北前”とは上方から見た日本海を表す言葉だそうです。
「北前船」と呼ばれたのは、西廻り航路が出来上がり、
上方や瀬戸内の船が日本海へ向かい始めて後のことです。
本文中の時代では日本海での呼称である「ベザイ船」や「バイ船」と
表記するのが適切なのですが、解りやすかを考えて敢えて「北前船」で通します。
いつものんべえのつぶやきを読んでくださり感謝感謝です。
「酒ブログランキング」ってのに参加しています。
ワンクリックがのんべえの励みになります。
こちらのバナーをポチっとお願いしま~~~す。⇒⇒⇒
by sakenihon | 2009-08-17 02:17 | 日本の歴史