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河村瑞賢 西廻り航路開拓 その二


河村瑞賢を続けますが、本題に入る前にもう少しだけ時代背景を付け加えます。


なぜ、幕府は東北地方の天領の米(御城米)を江戸へ移動したかったのか?
幕府の上層部が心を砕くような大きな問題があったのか?

この疑問を解くカギは人口問題にありました。

【日本の人口推移】
 1150年 (平安末期)    6,837千人
 1600年 (開幕時)    12,273千人
 1721年 (享保6年)    31,279千人
 1804年 (文化元年)   30,746千人
 1873年 (明治6年)    33,300千人

実は17世紀は日本列島では人口爆発が起こっていたんですね。

1600年~1721年の120年間に人口は2.5倍以上に膨れています。

戦乱が収まり、作物の安定的な収穫ができるようになったことが大きな原因のようです。

その前の450年間では約2倍、その後の150年間では微増ですから、

この120年間の人口増加がいかに急激なものであったかがよくわかりますね。


特に江戸では1657年の明暦の大火以降、急激な人口流入が起こりました。

大火後の市街地再生には多くの人手が必要だったからです。

その後、江戸の街は町並みの整備も進み、著しい経済発展が起こりました。

そして、絶頂期が元禄時代(1688~1703)となるんですね。

反面、慢性的な食糧不足状態に陥っており、幕府にも大きな問題になっていたようです。


さらに、東北地方は人口が少ない割に米の収穫が多く余裕があり、江戸・大阪の大都市圏を中心とした関東以西では人口密度が高く、慢性的な食糧不足というような地域間アンバランスも発生していたのです。

幕府が瑞賢に米の輸送を依頼した1671年は、まさにその状況の真っただ中だったんですね。

そこで、『人口爆発による食糧不足』『食糧の東西アンバランス』の対策として、
幕府は瑞賢にこのような依頼をしたのだと思います。


東廻りに続く、西廻り航路の完成によって、日本列島の物資の動脈が出来上がります。

現在でも同様ですが、すぐれた『物流』がない世界には経済の発展はあり得ません。

このミッションは、その後の徳川幕府の繁栄を左右するといってもいいものだったんですね。

しかし、それも後からわかること。

依頼を受けた瑞賢は”江戸の民衆のため”との想いで、このミッションに挑戦したようです。


前置きが長すぎますねえ~~~
その上、文章が堅い・・・・・・
自己嫌悪。 
でも、書き直す気力も才能もありません。
駄文・長文 お許しください。

明日こそ本編スタートします。

(参考文献)
「人口から読む日本の歴史」 鬼頭 宏著  講談社学術文庫
「河村瑞賢」  古田良一著   吉川弘文館



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by sakenihon | 2009-08-18 00:04 | 日本の歴史  

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