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河村瑞賢 奥羽海運改革 その時代背景と経緯

前回、1657年の明歴の大火をきっかけに河村瑞賢(かわむら ずいけん)は大きな富を得る

ことになった経緯を書かせていただきました。

明歴の大火は、徳川家康が入府した1590年から約半世紀後に起こっています。

この半世紀で江戸は都市整備が進み、参勤交代が始まったことなども影響して、地方からの

人口流入が次第に多くなっておりました。

そのような状況で発生した明歴の大火は江戸を再開発を促進し、本所・深川などの開発が

急速に進むきっかけとなりました。

今の言葉を使えば、超大規模都市開発による公共事業需要が発生したということですね。

そのような状況で、土木事業に加えて材木商へも進出した瑞賢の商いは、さぞや好調だった

と思います。


街が大きくなるとますます人口の流入が進みます。

関東の周辺でも多くの稲作がおこなわれていましたが、しだいにそれだけでは不足し、物価高騰

が発生するに至ります。 

その反面、耕地が豊富な地方の諸藩(特に東北地方)は人口は少なく、米余りの状況と

なってゆきます。余った米を抱えた地方の諸藩は、それを江戸へ持って来れれば高く売れ、

金銀を手に入れることができますから、江戸へ向かう大量の物量を支える物流手段を築く

必要が増してくるわけです。


江戸初期においてはまだまだ京都を中心とした近畿圏の方が江戸よりも都会であり、

米を含めた全国の物産は京都へ、そして大阪へ集まるような体制になっていました。

大阪が『天下の台所』と言われるのもそのためです。

特にお米は各藩が家来に俸禄米として分配した以外の米を金銀に交換するため、大阪の

蔵に保管しておき、相場を見ながら現金化していたそうです。

現在の穀物相場取引と同じですね。



あくまで、近畿が『上方』でした。

『上方』から江戸へ送られる物資は下り荷、下り物でした。

集まった全国の物産の中から、いいものを選りすぐって江戸へ送っていましたので、

送られない物は大したものではない、つまり『下らないもの』であり、そこから現在の

『クダラナイ』という言葉が生まれたそうですね。

ただし、この時代はお酒はすでに灘から江戸へ運ばれていましたが、お米は大阪で止まって

しまい、江戸への移送はなかったようです。



さてさて、明歴の大火から13年後の寛文10年(1670年)、江戸の街は復興著しく大量の人口

流入による物価上昇、特に米価の高騰を起こしております。

それに苦慮した幕府勘定方(今の財務省?)では、対策として奥州の天領米を江戸へ緊急輸送

するべきと決まります。


奥州の天領とは、ちょうど今NHKの大河ドラマ『天地人』の舞台、山形県の米沢藩上杉家から

没収され天領となった土地だったのではないかと思います。

上杉景勝は会津を居城に120万石を持っていましたが、関ヶ原で豊臣方についたため米沢へ

移動させられて30万石となっており、その没収分の90万石が天領となったようです。

全国の天領の総量は300~400万石程度だったようですので、この90万石の天領は幕府に

とってもかなり大きなものだったのでしょう。


しかし、当時の東北から江戸への物資の輸送方法では、長い時には1年以上かかり、途中の

遭難事故も多い状況でした。

その輸送を短時間で行う必要があるが、既存の米問屋に頼んでいてはとても間に合わない

と考えた勘定方は、合議の結果数々の事業を成功させていた河村瑞賢へ依頼することに

なりました。

寛永寺の瓦修理や増上寺に鐘の修理など数々に功績は幕府上層部へも届いていたのでしょう。

瑞賢宅へ勘定方の都築新左衛門という役人が、わざわざ依頼に出向いたということです。


江戸初期において、武士である幕府の役人が商人宅へ出向くというようなことがあったんで

しょうかね。

学校で教わった『江戸時代=封建制・士農工商』というイメージとは乖離した話です。

最近、江戸時代の一般市民にの生活についていろいろ調べるにしたがって、江戸時代は

それほど窮屈な時代ではなかったのではないかと感じることが多いです。

また、幕府の役人が物価の高騰に対する対応まで考えていたということも意外でした。

現在の霞が関の高級官僚よりもしっかり働いていたんじゃない?と思ってしまいます。


瑞賢は幕府の依頼とはいえ、海運は全く専門外であり、最初は固辞したそうですが、

江戸の庶民の生活を安定させるという大きな意味を持つ事業であると説得されて、

結局引き受けることになります。

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稚拙で長々とした文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

複数の文献やネット上の情報を確認しながら記載しておりますが、明らかな間違いが

ございましたらご指摘ください。
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by sakenihon | 2009-01-31 23:59 | 日本の歴史  

河村瑞賢 明歴の大火

上野寛永寺から離れて、河村瑞賢へ戻りたいと思います。

河村瑞賢が豪商としての富を築くきっかけになったのが1657年に発生した『明歴の大火』です。

『明歴の大火』は『振りそで火事』とも呼ばれ、一人の娘の失恋が元となったという話があります

が、発展著しい江戸の街の再開発のために計画された「点け火=放火」という説もあります。

いずれにしても現在の中央区、千代田区のほぼ全域を焼きつくす大火で、死者は十万八千人

と言われています。

このときには家康入府前からあった江戸城も焼け落ちてしまいます。

瑞賢が40歳の頃の出来事です。

1641年の寛永の大火の時には江戸に見切りをつけて上方へ向かおうとした瑞賢でしたが、

明歴の大火での対応は全く違っていました。

すでに普請方に認められ土木工事の現場監督のようなことをしていた経験から、大火の後の

材木の不足を予知します。

当時、一般の民家のための材木は関東近郊の木を使っていましたが、大名の屋敷などに

使う上質な材木は紀州産や木曽産が使われていました。

そのようなことにも瑞賢はすでに精通していたと思われます。

大火を見るや、我が屋敷も危ないというときに有りったけの金銭を携えて、夜に日をついで尾州・木曽へ

向い、可能な限りの材木を買う契約をしたといいます。

後に他の材木商が訪れたときにはすべて瑞賢が買い占めていたということです。

大火によって多くの屋敷が焼失したと同時に、江戸に蓄えられていた建築用の材木も多くが

焼けてしまいましたので、瑞賢はこれによって莫大な富を築いたといわれています。

また、購入した大量の材木を江戸に運ぶ際には船を使ったと思われますので、その経験が

後の海運改革でも大変に役立ったのではないでしょうか。

このエピソードは紀伊国屋文左衛門のものとして語られることもあるようですが、明歴の大火の

年には紀伊国屋文左衛門はまだ生まれていません。


これだけの話を聞くと、瑞賢は強欲で他人の不幸を利用して富を築いたように思えます。

しかし、瑞賢の人柄を示す記載が、古田良一著の『河村瑞賢』に記されていますので

引用します。

『瑞賢はまた他人が金儲けをすると、自分が儲けたように喜んで、その人を招いて宴を張った。

ある人がそれを不思議に思って尋ねたら、いま幕府や大名が持っている金は皆埋もれた金だ。

これを市中にばらまけば、人夫にいたるまでその利択を蒙る。そうなれば金銀が天下を馳駆する

ことになり、喜ばしい限りである。自分だけの利潤を楽しむようなことはしない、と言った。』
(以上『』内、古田良一著『河村瑞賢』15ページより引用)

これが本当ならば、現在の総理大臣を任せてもいいほどの経済観念を持っていたことになります。

ただの機智に富んだ商人ではないですよね。

この辺が、のんべえが瑞賢に惚れる部分なんですねえ・・・・・・


このようにして財を築いた瑞賢ですが、この私財をも費やして国家のインフラ整備となる事業を

次々に成功させることになります。

その話はまた明日以降につれづれに記載してまいりたいとおもいます。




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by sakenihon | 2009-01-30 05:38 | 日本の歴史  

本日の一献  《粕取焼酎とちりめん山椒》

久々にお酒の話題です。

最近、金欠でお酒の仕入れがなかなかできません。

晩酌はもっぱら鈴鹿の清水醸造さんの『楽』ばっかりです。

コストパフォーマンスがいいものでねえ・・・・・・・・努力不足ですみません。


てなわけで、本日は6月に山形へ酒蔵めぐりに行った時の買ってきていた焼酎での一献です。

ところで、山形県の蔵元ってあんまりオープンじゃないですね。

突然電話しても、一般人の訪問はシャットダウンって感じの蔵元が多くって、ちょっとがっかり

した記憶があります。


話を戻しまして、本日のお酒は山形県酒田市の『大吟醸酒粕焼酎 三十六人衆』です。f0193752_116368.jpg

蔵元は『菊勇株式会社』

実はこちらも事前にアポの電話を入れ

たのですが断られてしまって、訪問は

できていません。

しかたなく土産屋で購入したものです。


『菊勇株式会社』はあくまで日本酒の蔵元さんで、『菊勇』『三十六人衆』のダブルブランドで

売っているようです。

『菊勇』には上撰やパック酒もあることから推測すると地元向け、『三十六人衆』は県外向け

ということなのだと思います。

その『三十六人衆』の大吟醸の酒粕を蒸留して作った25度の焼酎です。

香りは正に大吟醸の酒粕の香り! (コラッ!当たり前だよ)

でも、ほんとにかなり香りが強くって、大吟醸の酒粕そのものなんです。

のんべえが知ってる焼酎の中でも香りの強さではトップクラスです。

味はかなりドライ。洋酒のような印象で、カクテルなんかにも使えるのではないかと感じました。

日本酒と焼酎を同時に味わってみたい方にはお薦めです。


酒粕から作る焼酎を『粕取焼酎』といいます。

戦前は福岡県を中心に全国の日本酒酒蔵で普通に作られていたそうですが、戦後に出回った

粗悪な混成焼酎のことを『カストリ』と呼んだために、混同されて非常に悪いイメージがついて

急激に需要が減少してしまったという歴史を持つお酒だそうです。

のんべえは福岡の出身で昭和50年代にすでに屋台で焼酎を飲んでましたが、粕取焼酎という

ものは知りませんでしたので、すでに衰退していたのだと思います。

現在では、本醸造を作るための柱焼酎用や梅酒用としての生産がほとんどのようですが、

このお酒のように大吟醸の酒粕を使って焼酎を作る酒蔵も少し出てきたようです。

本来の正統派粕取焼酎はもみ殻を混ぜて作るそうで、かなり香りがきついお酒のようです。

そちらも機会があれば一度飲んでみたいと思いますね。


f0193752_1571761.jpgさて、肴は最近のんべえがチョクチョク

挑戦している『山椒ちりめん』です。

ちりめんじゃこと山椒の味を煮た、

あれです。

市販のものはご飯のおかず用に味が濃くってしょっぱめにできていますが、手造りであれば

酒の肴用に好みの味に仕上げることができ、コストもお安めですのでいいですねえ。

『ちりめんじゃこ』はアメ横で、安くて物がよさそうなのを選りすぐってきます。

しっかり乾燥していて、小さめのものがいいようです。

『山椒の実』の入手が結構難しくって、のんべえは柏の高島屋の地下の佃煮屋さんで購入

しています。

山椒の量も酒の肴の場合は少し少なめの方が香りが邪魔にならずにいいようです。

今回は山椒50gに対して、ちりめんじゃこ200gで作ってみました。

造り方の詳細はこちらのページを参考にしています。⇒ 【レシピ】

2~3時間で簡単にできて、日本酒にも焼酎にもビールにも合う、お薦めの肴ですよ。






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by sakenihon | 2009-01-29 02:18 | 本日の一献  

上野寛永寺 《清水観音堂と平盛久》

最初は富山の満寿泉さんのHPに記載されていた、『北前船』って何?からスタートし、

『河村瑞賢』へ、そしてそこから『上野寛永寺』にたどり着いて、寛永寺について二日がかりで

長々と記載してしまいました。

もう少し『河村瑞賢』についてのお話をしたいのですが、その前にもう一つだけ、大脱線を

させていただきます。


寛永寺について記載するにあたって、上野公園周辺を散策してきましたが、その折に西郷さん

の銅像の裏手に不忍池を見下ろすように建つ『清水観音堂』に立ち寄りました。
f0193752_21524100.jpg

 『清水観音堂』は数多く存在した寛永寺の建造物の中で、上野戦争にも第二次世界大戦にも

無傷で残った数少ない建物で、国の重要文化財に指定されています。

お堂に入って参拝した後で、堂の中を見回しましたら一枚の『額絵』に興味がわきました。

お堂に入ってすぐの賽銭箱の真上あたりに、御本尊の千手観音に向かうように掛けられた

2mx1.5mほどの大きな額絵です。 (堂内撮影禁止でしたので写真はありません。)

その額絵には、武士から今にも首をはねられる寸前の人物が描かれていました。

武士は大きな太刀を今にも振り下ろすといった姿勢で、絵全体は非常にオドロオドロしく、

お寺には似つかわしいものではありません。

興味を抑えきれず、お坊さんに聞いてみました。

お坊さんはチョット息を整えるような一瞬のあとで、ゆっくり丁寧に説明をしていただきました。


その絵に描かれた、今にも首をはねられそうな人物は『平盛久』(たいらのもりひさ)という平家の

武将だそうです。

盛久は日頃から京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたそうです。

その盛久が源氏に捕えられ鎌倉の由比ヶ浜で打ち首にされる寸前、なぜかその太刀

がポッキリと折れてしまって、処刑ができなかったというのです。

その報告を受けた源頼朝は盛久を放免します。

盛久は京都に戻り清水寺へ参拝すると、自分が奉納した千手観音像が打ち首の時刻に倒れ

破損していたことを知り、観音像が自分の身代わりとなったのではと、改めてその霊験を

思い知ったというお話があるそうです。

お堂に掛けられた額絵は、その処刑の様子が描かれており、よく見ると天からは雷が降り注ぎ

武士の持った太刀の先がないのがわかります。

(このお話はお能でも『盛久』という題目で知られているとのことです。)

その傷ついた千手観音像がその後、京都の清水寺から寛永寺清水観音堂へ移されて、

清水観音堂の御本尊(秘仏)となっているそうです。


お坊さんは以上の経緯を説明された後で、御自分の感想として以下のように語られました。

「この清水観音堂だけが、上野戦争の激戦でも大戦でも全く被災せず、建立当初のままで

残っているのは何か不思議な力を感じずにはいれないのです。もしかしたら千手観音様から

守られていたのでは?と、どうしても考えてしまいます。」

信仰心のない私でもこのお話を聞くと、何かそのような力ってあるんじゃないかと思います。

今日ここへ来て、このお話に接することができてよかったと感じました。

いままで、何とも感じなかった上野公園をすごい場所に思えてきた昨今です。

(以上のお話はこちらのHPにも記載がありました。⇒ 『寺旅』 )


清水観音堂の御本尊『秘仏千手観音』は2月6日に年一回の特別御開帳となります。
これも何かのご縁ですので、是非拝みに行こうと思っております。
f0193752_216155.jpg



ようやく、寛永寺から『河村瑞賢』へ戻れそうです。

しかし、基本的にはお酒のブログ。

そろそろ、それらしいことも書かなくっちゃと思ってはおりますが・・・・・・・





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by sakenihon | 2009-01-28 02:23 | 日本の歴史  

上野寛永寺 つづき

脱線が長すぎるとは思うのですが、昨日に続いて『上野寛永寺』についてです。


江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜は慶応3年(1867年)10月15日、京都にて大政奉還

を行います。

その後、慶喜公は江戸の戻り、翌慶応4年2月12日から4月11日(江戸城無血開城の日)まで

の間、自ら寛永寺で謹慎し江戸城無血開城を見届け、その日に生家の水戸へ向かったそうです。

現在でも寛永寺にはその謹慎時に使われた二間続きの部屋が『葵の間』として残されています。


慶喜公が水戸へ向かったわずか一か月後の慶応4年5月15日、彰義隊ら旧幕府軍は徳川家

菩提寺である寛永寺に集結し、薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍との間で戦いが起こります。

これが戊辰戦争の一つで『上野戦争』と呼ばれる戦いです。

f0193752_19423896.jpgこのとき彰義隊が陣取ったのが現在の西郷さんの銅像付近。

その彰義隊を壊滅する口火を切ったのが西郷さんだった

といいますから、西郷さんの銅像が今の場所にあるのも

すごい因縁ですね。

戦はわずか半日で新政府軍の勝利に終わり、

彰義隊はほぼ全滅し敗走します。


ここで生き延びた彰義隊は船で平潟港(現在の北茨城)へ逃げ、いわき方面と会津方面へ

流れてゆくのですが、この平潟港を200年前に開いたのも河村瑞賢でした。

まさか瑞賢も自分が開拓した航路がこのように使われるとは想像してなかったでしょうね。


その後、西郷隆盛も『西南の役』によって逆賊として、51歳の生涯を鹿児島城山で終えます。

上野の山に銅像が竣工されたのは、西郷さんが賊名を除かれ名誉回復した後の明治30年に

なってからです。
f0193752_1958404.jpg
そして、西郷さんの銅像のすぐ後ろには、

ここで戦って敗れた彰義隊の墓

ひっそりと建っています。

あの世でも敵同士なんでしょうか?

それとも仲良くやっているんでしょうかね?


f0193752_20431120.jpg

実は、この上野戦争が起こったために、寛永寺のほとんど全山が焼失してしまったのです。

徳川家の菩提寺焼失のきっかけを幕府軍が作ってしまうとは、なんという皮肉でしょうね!

それによって、寺の境内地のほとんどが明治政府に没収されてしまうことになります。

後の第二次世界大戦の空襲でも大きな被害を受けますが、それでも上野戦争がなかったら

上野の街は今とは随分違っていたのではないでしょうかね。


でも、もし寛永寺が昔のまま残っていたら、都内有数の歓楽街としての今の上野はなかった

わけで、のんべえの楽しみも減っていたということですねえ・・・・。


ところで、『上野の山』って言いますよね。

この『山』って、もしかして『東叡山』の『山』の意味なんでしょうか?

上野に山はなさそうだし、『成田山』だって山の上にあるわけじゃないけど『成田山』だし、

『上野の山』っていう表現は、そこがお寺だったという証し何でしょうかね~~~



なんてことを考えながら、現在の上野の繁華街を見下ろすのんべえでした・・・・・・
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この通りが『上野広小路』。

正面方向が江戸城ですので、寛永寺参りの将軍様の行列がこちらへ向かって進んで来ていた

いにしえをご想像くださいませ。




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by sakenihon | 2009-01-26 22:49 | 日本の歴史  

上野寛永寺

河村瑞賢が上野寛永寺の瓦の修復に凧を使ったというエピソードをご紹介いたしましたが、

脱線ついでにさらに脱線させていただきたいと思います。

そもそも『上野寛永寺』って、みなさまご存知でしょうか?

日が沈んだ後の時間、のんべえが都内で最もお世話になったのは上野あたりです。

多少の土地感はあるつもりですが、『寛永寺』を含めて上野にあるお寺って記憶にありません。

ところが、調べるとまたビックリ! 

是非『上野寛永寺』についてご紹介させてください。

きっと上野の見方が変わりますよ!


上野寛永寺は正式には『東叡山 寛永寺』といいます。
f0193752_18173368.jpg

では、どこにあったのか?

上野にありました!

というよりも上野全体が寛永寺の境内だったというべきなのです。

現在残っている主な建物は、不忍池の真ん中のあたりの小島にある小さな『弁天堂』

西郷さんの銅像の後ろあたりのある『清水観音堂』と、上野動物園の中に『五重の塔』

などです。

現在の『東京国立博物館』の場所が寛永寺の本堂の跡地だそうです。

下の見取り図でわかるとおり、なんと不忍池からお隣のJR鶯谷の駅前までがすべて寛永寺

だったのです。 とてつもない広さのお寺だったんです。 

ですから、上野に寛永寺以外のお寺はないのですね。
f0193752_1827285.jpg

どうしてこんなに大きなお寺ができたのか?と不思議におもいますよね。

このお寺は天台宗の『天海大僧正』という僧が徳川二代将軍秀忠公と相談して、徳川家の

安泰と江戸庶民の平安を祈る道場(祈願所)として創建したのが始まりだそうです。

その後、三代将軍徳川家光によって寛永二年(1625年)に正式の寺院として発足し、

歴代将軍によって次々に整備・拡大され、徳川家の菩提寺も兼ねるお寺なったということです。

『東叡山』とは『東の比叡山』の意味が込められ、造営も比叡山延暦寺にならったそうです。

『延暦寺』の『延暦』は782~805年の桓武天皇時代の元号です。

これに対して『寛永寺』の『寛永』は徳川三代将軍、家光公の時代を現わす元号です。

元号をお寺の名前にするには、天皇の許可が必要になります。

ここからも普通のお寺ではない、ということがわかりますね。

また、陰陽道上では上野が江戸城の鬼門(北東)に位置し、寛永寺はその鬼門封じの意味も

あったというのが定説のようです。


上野寛永寺は徳川家菩提寺として、四代家綱、犬公方五代綱吉、暴れん坊将軍八代吉宗、

十代家治、十一代家斉、十三代家定の六名の将軍の御霊廟
があり、重要文化財にも

指定されています。

また、十三代家定の御台所天璋院篤姫も家定とともに寛永寺に眠っておられるそうです。

芝の増上寺も徳川家の菩提寺で、寛永寺とほぼ交互に歴代将軍が葬られたそうです。


不忍池の池の中の『弁天堂』『琵琶湖竹生島(ちくぶじま)の宝厳寺(ほうごんじ)』

見立てて造られ、西郷さんの銅像の後ろ側の『清水観音堂』は京都の清水寺を模した舞台造り

となっています。

《清水観音堂は焼失せず建立当初のままの数少ない建築物:重要文化財です。》
f0193752_19183656.jpg

現在の東京国立博物館から噴水にかけた場所のあった『根本中堂(こんぽんちゅうどう)』

は五代将軍徳川綱吉によって建立され、間口45.5m、奥行き42m、高さ32mの大伽藍で

まさに江戸随一の建物でした。(時代から考えて、瑞賢の凧の話はこの堂ではありません。)


上野から秋葉原へ向かう途中、御徒町あたりに『上野広小路』という地名がありますよね。

この『広小路』の名前の由来は、徳川将軍が寛永寺へ参る時に使うために道幅を広げたこと

によるそうです。

確かに上の地図を見ると広小路の延長線が噴水から国立東京博物館

つながることが明らかにわかりますね!。 (すっごい納得!ですよね。)




のんべえもつい最近まで『上野寛永寺』の名前も知りませんでした。

こんなに近くにこんなに知らないことがあったなんてね。驚きです。

これも『日本酒』を起点としての興味のお陰で、ありがたいなあと思います。

脱線続きの寛永寺の紹介だけでずいぶん長くなりすぎました。

が、まだもう少し続きがあります。

でも、そろそろ一杯やりたい時間になってしまいました。

続きはまた明日にします。 









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by sakenihon | 2009-01-25 20:29 | 日本の歴史  

初めての下北沢

昨日は千葉の田舎から下北沢まで行ってきました。 生まれて初めての下北沢です。

駅の周辺は若い人が多くって街の元気さがすごいですね。やっぱ「シモキタ」ですね。
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昨年、東京商工会議所の創業塾で一緒だった麻子さんが、下北沢で雑貨店を開業したので

その時の仲間たちとお邪魔しました。 お店の名前は『アヴリル』

駅南口から徒歩5分くらい、住宅地に入ってすぐの落ち着いた場所にありました。
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ルーシーがお出迎え。 すっごい人なつっこい看板犬です。
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お店の中から外まで、フランスを中心にヨーロッパのかわいい小物でいっぱい! 
オシャレなテーブルなんかもあります。
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お店はマクドナルドとスタバの間の商店街を抜けた、坂道の途中。

坂の先には大きなお屋敷も多そうな場所。

入口の脇には、買い物帰りに一休みできる椅子の心づかいも・・・・

まだ生まれたての小さなお店ですが、あななだけの掘り出し物にであえるかもしれません。
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下北沢へお越しの際には、是非立ち寄ってみてください。




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by sakenihon | 2009-01-25 12:43 | その他いろいろ  

《祝》 おかげさまで更新100回

このブログを2008年10月にスタートして、この更新でちょうど100回目となります。

回数を追っかけけいるわけではありませんが、やはり一つの区切りで嬉しいものです。



このブログがきっかけで、日本酒の原料となるお米と水というものが、日本文化の低流に

普遍的に存在する要素なんだと、しみじみと感じる毎日です。

『お酒』というキーワードから、自分でも思ってみなかったほど興味が広がり、おもしろく

大変勉強にもなっています。

まだまだ脱線してしまうとおもいますが、皆様よろしくお付き合いお願いします。


今日はこれから新年会。 都内に出没します。

それにしても今日は雪まじりですっごく寒い!  

熱燗であったまってきます。





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by sakenihon | 2009-01-24 14:26 | その他いろいろ  

河村瑞賢 エピソード その二と三 《解答編》

お待たせしました。

昨日の《出題編》の解答です。

《出題編》をお読みでない方は、是非昨日の記事を先にお読みください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、一問目の解答です。

芝増上寺の巨大な鐘の位置を修正する方法です。

普通は石や土を盛るというふうに考えますよね。

工事の方法は合っているのですが、問題はその材料なんです。

大きな石を移動するのも大変ですし、一度完成してしまった鐘楼を土まみれにするのも

スマートではありませんね。工事後の始末も大変そうです。

そこで河村瑞賢が使ったものとは!?



『米俵』です。

使用人を近隣の米問屋にやって、米俵に入った米を大量に買って来させました。

それを鐘の下から積み上げて行き、鐘の下までくると、それを土台に人足を使って

少しづつ持ち上げていったのです。

これだけでは、皆さん???ですよね。 石を米に変えただけ?ですよね。

確かに米なら近くの米蔵にあるでしょうが石より高価でしょうし、何がメリットなのかわからない

ですよね。

ところが、ここからが瑞賢の知恵。

工事が終わったら米屋を呼んで、引き取り料を払って引き取らせたのです。

今でいう『返品手数料』ですね。 

米は江戸に全国から集まり蔵にたくさんありますし、すでに俵に入って扱いやすい。

積み上げるのも簡単です。

そして、一見高価な材料ですが返品手数料というテクニックを使えば、最終的には僅かな

コストしかかりません。 後片付けも非常に簡単。

すごいアイデアだと思いませんか?

当時、一般に『返品手数料』という考え方があったのかなあ?

瑞賢のオリジナルアイデアだったのでしょうかね。


ちょうど同じ頃、三越の創業者の三井高利は日本で初めて『正札販売』を始めたり、雨の日に

三越のロゴ入り傘を客に貸し出し日本最初の広告宣伝をしたりと、新たな商売の試みを始めて

いた時代です。

瑞賢の住まいは現在の新川あたり、三越の日本橋とは目と鼻の先。

この時代の江戸の商人たちは自由で柔軟な発想で切磋琢磨し、あらたな商いを次々に考案

していた姿が瑞々しく想像されますね。 

江戸初期はまさに近代日本経済の創世記ですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

一問目が長くなりました。

二問目の上野寛永寺の鬼瓦の破損工事の方法の解答です。

問題は、足場を組まずにどうやって人足と瓦を屋根の上のあげたかということです。

要は、屋根の上からロープ一本を垂らせればいいのですよね。

瑞賢が使ったのは『凧』でした。

この工事がちょうど東風が吹く春だったということも瑞賢には幸いだったようです。

以下、古田良一著の『河村瑞賢』の記載を転記します。

『東風が吹くのを待って、凧を飛ばせ棟を超えて堂の後方に堕ちさせ、糸が堂の棟にまたがる

ようにし、それに丈夫な綱をつなぎ、また太い綱二本を堂の前後の木の株にしばりつけるなど

して、縄梯子を作って修理した。』 

長内国俊氏は、瑞賢が必要な凧の糸の長さや縄梯子の高さを、ピタゴラスの定理を応用して

事前に算定していたのではないかと述べています。

また、季節による風の向きについても海運の経験から十分な知識を持っていたがゆえの

アイデアだったとも推測しています。


聞いてみるとどちらも頓知のような話で、後の時代の作り話ではないかと思ってしまいます。

しかし、これらの記録は江戸時代中期のの随筆集『翁草(おきなぐさ)』や江戸後期の歴史書

『野史(やし)』に残されており、講談などでの脚色による伝承ではないようです。


さてこの種明し、いかがでしたか?

のんべえはそのアイデアの単純明快さと近代性に軽い感動さえ感じました。




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by sakenihon | 2009-01-24 00:24 | 日本の歴史  

河村瑞賢 エピソード その二と三 《出題編》

河村瑞賢(かわむら ずいけん)の話題を続けさせていただきます。

今回は問題出題形式とさせていただきますね。



芝の増上寺といえば、現代でも知らぬ人はいない徳川家の菩提寺です。

ウィキペディアによりますと、元々は紀尾井町あたりのあったものを慶長3年(1598年)に

家康によって現在の場所の移されたということです。

この増上寺に新しい鐘楼を造って鐘をつるしたことがあったそうです。

将軍家ゆかりの増上寺の鐘ですから、さぞや大きな鐘だったのでしょう。

ところが、釣るす場所が多少低すぎたようで、つくと鐘が動揺してしまいよろしくない。

なんとかもう少し持ち上げたいのですが、現代のような重機があるわけでもなく、巨大な青銅の

塊である鐘を持ち上げるのは、もう一度土台ややぐらを組みたて直したりする必要があり、

簡単にはできそうもありません。

えらく費用も時間も掛ってしまうということで、お寺は困ってしまいました。

ところが、これを瑞賢は『ある物』と人夫2~30人を使って非常に低コストでやってしまった

そうです。

皆さんならどうやって直しますか?


さらにもう一問です。

今度は上野の寛永寺です。

上野寛永寺も当時は巨大なお寺だったそうです。

その鬼瓦が破損してしまい、修理をしなくてはならなくなりました。

そのためには人足を屋根に登らせねばなりませんが、わざわざ足場を組んでいては、

たった一つの屋根瓦の修理のために、たくさんの材木の準備から始めなくてはなりません。

ところが、こちらも瑞賢の奇抜なアイデアでたった一日で修理ができてしまったそうです。

皆さんならどうしますか?


御存じの方は、『なにもったい付けてんだ!』 とお叱りかとおもいますが御勘弁ください。

御存じでない方、1日考えて瑞賢と知恵比べを楽しんでみてください。


答えは明日のお楽しみ・・・・・・・・


ちなみに、のんべえは『なあるほどねえ~~』と単純に感心してしまいました。





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by sakenihon | 2009-01-22 21:56 | 日本の歴史