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民主党の大勝 酒税は?

今日は台風直撃で大変な感じです。

これからの時間、ますます風も雨も強くなりそう。


さてさて、予想通りといいましょうか、衆議院総選挙は民主党の大勝に終わりました。

自民独裁よりは二大政党化は長期的にはいいことなのでしょう。

しかし、短期的にはいろんなところで大混乱になるのではないかと心配もあります。


無党派層ののんべえですが、気になるのは”酒税”のこと。

酒蔵を廻ると歴代総理大臣の「國酒」の色紙をよく目にします。

酒造業界も自民党の支持業界なんだなあ・・・と漠然と思っていました。

鳩山さんもあの色紙を書くのでしょうかね?


民主党のマニュフェストはイロイロお金がかかりそう。

消費税も値上げしないそうです。

そのとばっちりでタバコとかお酒への課税を大幅に引き上げるなんてことはないでしょうね?

タバコは以前から1箱1000円なんて話もあったんですが、お酒は大丈夫かな・・・・

それだけはご勘弁ください、お代官さま~~~~~! 





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by sakenihon | 2009-08-31 08:40 | その他いろいろ  

北前船と日本酒 【富山 満寿泉】

北前船は佐渡を出港すると、次の目的地は能登半島となります。

しかし、今回は能登半島の手前の富山に寄港することにしましょう。

なぜなら富山の港には、 『満寿泉』の桝田酒造店があるから。
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明治26年創業の桝田酒造店の生い立ちは北前船と深い関係があります。

以下、桝田酒造店のHPからの転載です。
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かつて北前船(地元ではバイ船と呼ぶ)の交易で栄えた廻船問屋の町家や料亭のたたずまいに往時の繁栄が漂います。桝田酒造店はこの界隈のなかほどに蔵を構えています。

初代亀次郎はその当時、岩瀬の五大家と言われていた廻船問屋から妻を迎え、その北前船にのり、開拓の地 北海道旭川にて酒造業を興した。
旭川酒造史に「都松」の商標で最初に出てくるのは明治26年のことである。
年間1500石と明治年間としてはとても大きな規模まで成長するが、妻のフデが明治36年の寒波のあと「もう岩瀬に帰りましょう」と言い出し明治38年に現在地に戻った。
 岩瀬では岩泉という銘柄で始めたが、港の芸者衆にも飲んでもらう為、昭和の始め頃、今で言う別ブランド展開で苗字の桝田にちなんで「満寿泉」とまことにめでたい名をつけ販売した。
それが成功し現在は満寿泉が主力ブランドになる。
======================================
のんべえはこの文章を読んで以来「北前船」が気になり始め、今に至ってます。

桝田酒造店のある東岩瀬はまさに船が接岸する岸壁にあります。

酒蔵から100mほどでこんな風景も見ることができます。
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上の写真のすぐ左側に並行して古い街並みが残っています。
現在その町並みは歴史保存地区となっています。
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     回船問屋 森家
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     銀行も町並みに溶け込んでいます。
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     こちらは鍼灸院でした・・・


【吟醸蔵と三盃杜氏】

こんな歴史ある『満寿泉』さんは昭和40年代初頭から吟醸酒造りに取り組み続け、

元祖”吟醸屋さん”として名高いお蔵さんです。

現在でも全石高1500石中70%を吟醸酒が占める酒蔵です。

この『満寿泉』を50年間にわたって醸し続けてこられたのが、三盃(さんばい)幸一杜氏です。

能登杜氏四天王の一人とも称せられる名人杜氏。

実父から満寿泉の杜氏を引き継ぎ、1958年からずっと満寿泉一筋。


普通、吟醸酒は蓋麹法という方法で麹造りを行いますが、三盃杜氏は”床麹法”で造ります。

一般には”床麹法”は普通酒などの麹を大量に造る場合に用いる方法。

吟醸酒には向かないといわれていますが、三盃杜氏はこれで大吟醸も造ります。

一見荒っぽいようですが、三盃杜氏は手先で麹の顔が見えるというのです。

経験が教科書を超えたということなのでしょうか。
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f0193752_20244387.jpgなぜ床麹で造るのかなどの詳細は「挑戦する酒蔵」(酒造環境研究会編)に詳しく紹介されています。

上記の写真も同書の1ページから拝借しております。 ごめんなさい。

(この本には「大七」「だるま正宗」「自然郷」「福光屋」なども詳細に紹介されてます。ご興味のある方はどうぞ。)



残念ながら、三盃杜氏は平成17年の造りまでで引退されました。

この50年間、お正月を自宅で迎えたことが一度もなかったそうです。

杜氏という仕事の大変さがうかがわれます。 お疲れさまでした。

平成18年・19年は後を託す堂目杜氏への引き継ぎはされていたようです。

平成20年の造りからは完全に堂目杜氏の造りとなっているようです。

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そこで、こんなお酒を入手しました。

三盃杜氏の造り最後の年となった平成17年の満寿泉。

『満寿泉 純米大吟醸 無ろ過生酒』

完全な低温貯蔵で4年間寝かせたお酒。



栓を開けるのが勿体ないようです。

気合いを入れていただきます。

その結果はまた後日。



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by sakenihon | 2009-08-29 22:30 | 日本の歴史  

北前船と日本酒 【佐渡】

山形・酒田からぐるりと下関を廻って江戸に至る西廻りルート。

従来からあった蝦夷地までを含め、後に”北前船”と呼ばれる和船です。

この航路の安定航海ができるようになったことで、日本国内の物資流通がスムーズに

なり莫大な財産を築いた豪商を多く生み出しました。

その繁栄は鉄道が敷かれる明治30年頃まで続きました。

船の数も多くなり、寄港地ではいろいろな文化が発達したようです。

日本酒もその一つ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

酒田を発った後、最初の寄港地は佐渡の小木(おぎ)です。

現在は直江津とフェリーでつながる港町です。
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瑞賢の指示で幕府が立務所を設けてから、大小400隻もの船が停泊可能な港となり、

島の南端の小さな港町は随分と栄えました。

ここで補給や風待ちをしたばかりでなく、新潟から小舟で小木に持ってきた米の積み替えや

新潟港での膨大な米の積み込みの順番待ちの場所でもあったそうです。
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現在の佐渡に現存する酒蔵は6つ。
上の地図の赤いマークの地点が酒蔵です。
人口6万5千人の島にしては多いのではないでしょうか?
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(以上6点の画像は新潟県酒造組合のパンフレットより)

北雪酒造と逸見酒造は明治5年創業。
尾畑酒造は明治25年、加藤酒造は大正14年の創業。
菊波酒造は昭和23年、佐渡銘醸は昭和58年。

残念ながら、江戸期から続いている酒蔵はありませんでした。

菊波酒造と佐渡銘醸は複数の酒蔵が統合したと思われますが、詳細は不明です。

北前船の水夫や佐渡金山の工夫が飲んでいた酒の特徴が、今でも残っていると

考えるのは無理でしょうかね。

f0193752_20245077.jpgのんべえがこの中で飲んだ記憶があるのは北雪大吟醸だけです。

今回入手できませんでしたが、いわゆるやさしい新潟の酒とは違い、

スッキリとした非常にキレのいい男酒という印象でした。

新潟本土と佐渡では酒の味は違うのでしょうかねえ・・・

北雪酒造は石高5000石の比較的大きなお蔵さんです。


地元消費のもっと小規模な銘柄も飲んでみて、傾向を探ってみたいもんです。
(北雪酒造は地図中一番小木に近い海岸沿いの一軒です。)


佐渡には北前船が残していった文化がもう一つあります。

『船箪笥』という船の中で使う大変頑丈で精巧にできた高価なタンスです。

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船箪笥の三大産地というのがあって、「山形県 酒田」「佐渡 小木」「福井 三国」

なんだそうです。 もちろん三か所とも北前船でつながっています。

f0193752_22421279.jpg佐渡には芸者箪笥というのもあるそうです。

金が集まる場所には女が集まる?
 
港町には芸者衆も集まったようで、羽振りの良い船頭達が

気に入った芸者に買い与えたことから発達した工芸品だとか。

今なら銀座のオネエサンに外車を買ったげる、ってとこでしょうかね?

北前船で栄えた町には決まって花街もあったようで、艶やかな話もたくさん転がっているようで、

やはり、お酒と女性も切っても切れない仲なのですなあ・・・


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小木には唯一の北前船「白山丸」の実物大模型も(北前船 寄港地と交易の物語 より)



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by sakenihon | 2009-08-27 23:05 | 日本の歴史  

アウグスビール

今日は唐突にビールの話題。

実はのんべえ、一時尿酸値が高かったことがありまして、「このままだと痛風になりますよ!」

との医者の言葉を聞いて以来、やきとりのレバーとビールは極力避けております。

よほど美味しそうな場合以外はこの2品は口にしません。

ビールの代わりはホッピーで我慢してます。 寂しいものです。
(ちなみにカミサンはビール党。 目の前でキリンラガーを旨そうに飲みます。 チクショー!)


こんなのんべえが思わず飲んでしまうビールが『アウグスビール』

エール系では木内酒造さんのネストビールも秀逸です。

しかし、国内のラガー系ではアウグスの右に出るものを私は知りません。
(日本酒と違って専門外なんで気楽に断言しちゃいます。)


そのアウグスビールさん直営のビアレストラン『アウグスビアクラブ』が出来たというので、

行ってまいりました。場所は六本木ヒルズの近く。 
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のんべえ、六本木は防衛庁がなくなって初めて。 浦島太郎です。

おお~~六本木ヒルズってこんなところに建っちゃったのねえ~~って感じ。

アウグスビールは元キリンビールのアメリカ現地法人の副社長さんと一番搾りを造った

ブラウマイスターが二人で立ち上げたビールメーカー。

一般の小売はせず、高級飲食店への生ビールタンク販売のみ。

ですから、普段はなかなか飲めなかったんです。
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まずは定番ピルスナー1パイント。

ピルスナーはチェコがご本家の淡色ラガー。

日本のビールの原型のようなものですね。

つい、うっかりシャッターの前に一口グイッと

やっちゃった!

これを飲むと、「ビールも醸造酒なんだあ!」

ということを思い出します。

コク・甘み・旨味・苦味・炭酸のバランス最高。

なめらかで心地よい喉越しが楽しめる、

日本人の嗜好に合ったピルスナービール。

ヨーロッパの麦芽とチェコのホップを使っているそうだけど、日本酒に比べると原料の善し悪しが

ストレートに出てしまうのかもしれないなあ・・・なんて考えながら飲みほしました。

さらに福島の工場から出来立てを毎日直送ということも旨い理由か?

エール系だと数年寝かせると旨味が増すということもあるようです、ラガー系はやはり

鮮度が重要なようです。(メーカーのCMみたい・・・)


さらに、ネットの事前情報で評判良かったので注文したマルゲリータ。
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これも旨かった。 生地のもちもち感もよかったけど、トマトのフレッシュ感がいいです!

いつも和食ばかりののんべえでも旨いと思いましたよ。


日本酒にはないベタボメになってしまいましたけど、旨いビールを飲んでみたいという時

にはホントにおススメ。

ただし、御値段は多少お高め。

1パイント(568ml)で980円~ ですから・・・・・・

いい原料で真面目に少量生産すると高くなってしまうのは日本酒もビールも同じか!?

今日は2パイントで止めました。 (オトナの節度?)


日本酒でもこんなスッキリしたベタボメ記事、書いてみたいなあ・・・・・
できないんですよねえ・・・・・ついつい理屈っぽくなって。




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by sakenihon | 2009-08-26 01:51 | 本日の一献  

河村瑞賢 西廻り航路開拓成功のポイント

またまた、河村瑞賢ネタに戻ります。
文字ばかりで、面白くないと思いますがご勘弁を・・・

8月19日の「河村瑞賢 西廻り航路開拓 その三」のつづきです。

瑞賢が幕府に提案した”企画案”への補足です。

② 最上川上流の天領から河口の酒田への米の運び方のルール作り。
 天領の米を最上川の川船で河口まで運んで、いったん集積します。
 その運賃は従来、民間が負担していたため人民が重課に苦しんでいたので、これを官費とした。
 さらに、従来は上流の船ばかりを使っていたが、上流・下流わけ隔てなく使うように変える。
 これにより船持が均しく富んで船も堅牢になり、輸送が安定することとなる。

③ 酒田での米の保管方法の見直し。
 最上川の河口に集めた米の貯蔵場は、従来民間の私物と一緒に置いていた。
 しかし、これでは万一の災害の際に被害が大きくなるので、御城米専用の蔵を設ける。
 (当時は火災の危険性が大きかったようです。)

④ 酒田での船積み費用の負担者の変更。
 酒田での船積み費用は従来は酒田の領主(酒井家)の負担だった。
 これをすべて幕府負担とする。

⑤ 御城米船であることがわかる幟(ノボリ)を立てさせる。
 東廻り海運の時と同じく、幕府御用船であることが分かるようにする。
 このことで通過する藩からの協力・援助が受けやすくなる。

⑥ 途中寄港する諸港での入港税の免除。
 従来、北国の諸港では運搬船に入港税を課してた。
 そのため、船頭は税を免れるためになるべく港に寄港しないで、無理な航海をしていた。
 その結果、遭難・転覆が多発していた。
 瑞賢はこの入港税の徴収をやめさせるよう、幕府から諸藩に通達を出させた。

⑦ 寄港地の特定と立務所(海の関所)の設置。
 途中の寄港地として以下の10か所を定め、立務所を置く。
 立務所では関所のように人や荷物の出入りのチェックのほかに、荷物の積み過ぎなども
 目を光らせて安全な航海となるようにする。
 小木(佐渡)、福浦(能登)、柴山(但馬)、温泉津(石見)、下関、
 摂津(大阪)、大島(紀伊)、方座(伊勢)、畔乗あのり(志摩)、下田(伊豆)

 また、周辺の幕府代官や諸侯へ御城米船の保護を命じた。

⑧ 関門海峡の水先案内船の整備
 下関の海峡は海中に岩礁が多く通過が難しいので水先案内船を備えるように命じる。
 また、流れが速いので無理に近道をして座礁などしないよう命を出す。

⑨ 航海の時期を気候が安定した時期の限る。
 毎年春分前後は強い西風が吹くので、その時期を避け、北上すること。

⑩ 以上の提案の是非を自ら確認するために、全行程を自ら訪れてチェックする。
 輸送船が通過する各港を瑞賢自らすべて詳しく視察するため、旅に出る許可も幕府から取った。
 さらに、そのついでの当時唯一外国船が集まる長崎への視察も許可を取った。
 (この視察旅行には瑞賢の長男伝十郎を伴った。)


以上のような瑞賢の提案を幕府はすべて受け入れました。

提案の内容は幕府の支出が増える内容も含まれていることの驚きます。

むやみにコストを下げるのではなく、ムリ・ムラ・ムダをなくすことでトータルをスムーズに

進めようとする瑞賢らしい提案だと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

寛文12年(1672年)3月、瑞賢は江戸を発って酒田に向かいました。

酒田に着いたのが4月8日。

公儀御役人の格式で堂々と乗り込んだそうで、宿へは鶴岡の庄内藩主から度々贈り物

があったそうです。

伊勢の農民として生まれた河村瑞賢に対して・・・・・そうゆうことが有り得たんですねえ。

(この辺にも徳川封建制の柔軟さを感じてしまいます。)


5月2日に御城米を積んだ船が初出帆し、5月10には瑞賢親子も酒田を出発しました。

酒田を出て徒歩で北陸道から山陽道へと立務所を設けた港を巡りながら下関へ至り、

船で九州へ渡り、長崎を訪れたそうです。

帰路は下関より船で瀬戸内海の航路を視察しながら大阪に至り、京都から東海道を経て

江戸へ戻ったとのことです。

この間、2カ月弱の旅だったようです。 

お疲れ様です。 瑞賢すでに55歳。 

人間の脚は大したのもです。 昔の人は強かったんですねえ。


城米を積んだ船は一隻の沈没・破損もなく、7月に次々と江戸へ到着したそうです。

酒田から約2カ月で減損もなく大量の米を運べたことは、当時では考えられない奇跡。

それまでは減損しながら、1年以上掛っていたのですから。


このように、航路が安全になり、海運の改善への貢献大ということで、幕府はこれを賞して

瑞賢に金三千両を賜与したそうです。

このように、瑞賢の行動が仔細に解るのは新井白石『奥羽海運記』を残しているためです。


以上、『河村瑞賢』 古田良一著 吉川弘文館 からの抜粋です。


次回からは、この西廻り航路にちなんだお酒をネタにしてゆきたいと思っております。

どこまで続くやら・・・・




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by sakenihon | 2009-08-24 22:45 | 日本の歴史  

いちべえ寄席

荻窪の有名地酒処「いちべえ」さんのいちべえ寄席に行ってきました。(って昨日も書いたか)

残念ながら寄席の後の宴会は予約が取れず、寄席のみ。

今回は三遊亭鳳志&桂吉坊さんの二人会。

いつもと違った二人会のせいか?大盛況の大入り満員。

一人座布団一枚分のスペース。  けっこうキツイ姿勢ながら、浴衣姿の女性客もちらほら。

みなさん和気あいあいで落語を楽しめました。
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三遊亭鳳志さんと
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桂吉坊さん。
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鳳志さんは東京、吉坊さんは上方の若手。

お互いにかなり意識しながらの二人会。 緊張感もあって楽しめました。

これで木戸銭1000円はリーズナブル?

このあと、いちべえさん自慢のお酒が飲み放題の宴会だったのですが、今回は予約一杯。

しかたなく、阿佐ヶ谷~高円寺方面の夕暮れの街に消えたのんべえでした。



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by sakenihon | 2009-08-24 01:26 | 本日の一献  

荻窪 鳥もと 閉店

昨日は荻窪の居酒屋”いちべえ”さんの『いちべえ寄席』に行ってきました。

が、その前に荻窪名物の立ち飲み焼き鳥屋”鳥もと”でチョット一杯。

なんと今月いっぱいで駅前再開発のため閉店(移転?)とのこと。
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お店のお兄さんたちは愛想ゼロでチョット怖そうな体。

独特の緊張感があって、むやみに酔いつぶれたり騒いだりできない雰囲気がよかった。

昭和の風情がいっぱい詰まったオトナの社交場がまた一つなくなりますなあ。





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by sakenihon | 2009-08-23 19:18 | 日本の風景  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 【塩飽衆】

河村瑞賢が幕府に提出した企画書の一番は「使用する船の選定」です。

東廻り海運では堅牢さと航海技術の優秀さで伊勢近辺の船を使いました。

今回はもっと要求レベルが高いし、もっと広い選択が可能です。

そこで、瑞賢が選んだのが【塩飽衆(しわくしゅう)】でした。


徳川封建制下では領土は幕府直轄の「天領」とそれ以外の「大名領」が原則。

ところが、どちらにも属さない一種の「自治領」が存在したらしいのです。


現在、岡山と高松を結ぶ瀬戸大橋が通る”与島”とその西側に連なる本島・牛島・広島など、

二十以上の島を塩飽諸島と呼びます。
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この島々を本拠にしていた塩飽水軍(元は海賊)がおりましたが、信長の本願寺攻め、

秀吉の小田原攻め、朝鮮出兵などに加勢して手柄を立てたことで、秀吉から特別の加護を

受けました。

秀吉は中心的な島民650人(塩飽衆)に朱印状を与え、独自の自治を許したのです。

その後徳川家康・秀忠も同様の取り扱いを許しました。

彼らは日本一の航海技術と堅牢で精密な船舶を持っていただけでなく、人心が純朴だったようです。


瑞賢は西廻り海運において、彼らに白羽の矢を立てました。

何かの事業を行う時、『人・物・金』が重要といわれます。

瑞賢は、とりあえずこれで”人”については選択を終えたのでしょう。

幕府も塩飽衆のことは十分知っていたでしょうから、反対はしなかったでしょうね。


塩飽衆は全盛期の元禄期には船数200槽、船員3000人まで拡大し全国で活躍していました。

彼らの足跡は津軽・松前まで残っているそうです、

彼らの操船技術はその後も進歩し続け、日本の海運に大きく貢献したようです。

咸臨丸のアメリカ航海時の水夫50人中35人が塩飽衆だったと聞くと驚きます。

明治以降の海軍でも塩飽衆出身者が活躍したということです。


また、彼らは金毘羅信仰が厚く、金毘羅の旗を押し立てて各地の港に寄港しました。

金毘羅参りが盛んになるのは江戸中期からですが、金毘羅信仰拡大にも塩飽衆の影響が

大きかったようです。



※今回の記載内容は「北前船 寄港地と交易の物語」(無明舎出版)からの受け売りです。)


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by sakenihon | 2009-08-21 02:36 | 日本の歴史  

酒田の酒 【上喜元】

河村瑞賢に与えられた『西廻り航路開拓』のミッションは『米輸送』のミッションです。

ですから、船の行くところ、お米があり、お酒があります。

後に”北前船”と呼ばれる大型船輸送は明治30年頃まで繁栄を続け、莫大な利益を上げます。

そのためその寄港地では、いろいろな文化の華も咲いたようです。

また、寄港地には船乗り達の需要を満たすため、多くの酒蔵も出来ました。

船乗り達は大阪まで航海するわけですから、灘・伏見の酒の味も知っています。

金を持った、酒の味にウルサイ客である彼らの要求に応えるために、寄港地は銘醸地に

なっていったのではないかと想像を膨らませています。


西廻り航海のスタート地点酒田にもかつては多くの蔵があったようです。

現在でも以下のように、6軒の酒蔵が残っています。

    (蔵名)     (主要銘柄)     (創業)
  オードヴィ庄内   清泉川       明治8年
  菊勇          菊勇       昭和48年(3蔵合併)
  酒田酒造      上喜元       昭和21年(5蔵合併)
  東北銘醸       初孫        明治26年
  藤屋酒造      天盃富士      文政12年
  麓井酒造       麓井        明治24年


現在の酒田市の酒蔵の中では、『上喜元』が圧倒的な人気銘柄ですね。

それ以外のお酒の東京での入手は、銀座に今年の4月にオープンしたアンテナショップ

『おいしい山形プラザ』が便利です。
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ということで、今宵は『上喜元』で一献いただくことに。
上喜元を醸す酒田酒造は昭和21年に5つの酒蔵が合併してできた酒蔵ですが、
存続蔵である橋本酒造場の創業は弘化元年(1844)とのことです。

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このお酒は長谷川酒店(グランスタ店)で購入。

長谷川酒店と酒蔵のタイアップのオリジナル商品だそうです。

瓶は真っ黒。ラベルがお米の形。

サイズは720mlオンリー(推測)。

今回購入は「純米」でしたが、「純米吟醸」もありました。

価格は1176円。(純米吟醸は1400円台だったかな?)

お米は雄山錦。

雄山錦は「ひだほまれ」と「秋田酒33号」の交配種で平成10年頃

から出回っている吟醸酒向きの新しい酒造好適米です。

今回購入の「純米」は精米歩合70%

上喜元の70%が珍しく感じて購入。


それにしても長谷川酒店さん、頑張ってますね。

オシャレで面白くて低価格なお酒の開発意欲が見え見え。

f0193752_8152845.jpgさて、お味のほうは・・・・

開栓して、まず一杯。 

正直なところ、酸味・渋み・苦味が強くてノーグッド!

お燗にしてもかなりきつくて、ぐい飲み一杯だけでご馳走さま。

でも、この渋み・苦味はお米の旨味から来ていると感じました。

ある意味、のんべえ好みのコクのある純米の証でもあります。


こうゆうお酒は1~2日寝かせるとコロッと変わるはず。
翌日再挑戦しますと案の定、前日の渋み・苦味はほとんど消えて
旨味・甘みがグッと前面に出てきていました。
微かですが吟香っぽい香りさえ出てきてくれました。

すっきりしたなかでも、お米の旨味がしっかり味わえる精米70%らしい、上質低価格の純米酒。
これがのんべえの結論でした。

盃がグイッと進んで、気が付けば1合ほどを残すばかり・・・・・
いけねえー お燗を試してね~や。
お燗は明日に持ち越しだあ。


ホントに日本酒は不思議です。
誠に微妙でデリケートなアルコールですねえ。

面白すぎてやめられませんぜ!



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by sakenihon | 2009-08-20 08:36 | 本日の一献  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 その三


1672年に酒田(山形県)から江戸への米の廻漕を命じられた瑞賢でしたが、

まずは概略のルート設定を考えなければなりません。

酒田から江戸であれば、いったん北上して津軽海峡を廻って東廻りで南下するのが早道。

しかし、以下の理由でそれは選択されませんでした。

① 津軽海峡の急流の危険性。

② 太平洋岸に良港が少ない。

③ 太平洋岸の諸国より日本海側のほうが交易物資が豊富。

④ すでに日本海ルートの蝦夷~敦賀間には航路が存在していた。

③の点では、加賀藩をはじめとした日本海側各藩の米の効率輸送需要があります。
昨日述べたとおり、東北の各藩は余剰の米を抱えており、これを換金するために効率いい輸送が望まれたのです。
実は、加賀藩は河村瑞賢よりも30年も前から下関廻りでの輸送に挑戦していました。
しかし、うまくいってなかったため、従来の敦賀からの陸路ルートが主流だったようです。
つまり日本海廻りルートには膨大な潜在的需要があったのです。

④については私の独自の考えですが、青森の十三湖を本拠とした豪族「安東氏」の存在が浮かびます。
安東氏は安東水軍とも呼ばれる強力な航海術を有した集団で、蝦夷のアイヌとの交易窓口であっただけでなく、中国大陸との交易をおこなっていたそうです。
当然ながら秋田・新潟などとの交易もあったはずで、この海域の航路開発や港湾のインフラ整備にも深く関与していたのではないかと、夢想しております。

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またまた、脱線してしまいました。

瑞賢は下関廻りの航路を想定し、使用人を瀬戸内海の備前・讃岐などの諸国に遣わしました。

使用人たちは沿海の住民から、航海に関する利害関係・航路の地理・港湾の状況などを詳細にヒアリングし、逐一瑞賢に報告しました。

同時に出発地となる酒田へも、東廻りの時に荒浜に同行した番頭を派遣します。

東廻りの時には、下調べも瑞賢自らが動きましたが、それに同行した使用人たちはその経験から、何をどのように調べたらいいのかを会得していたのだと思います。

瑞賢は人の使い方も長けていたのでしょう。 部下との信頼関係もできていたと思います。

そうでなければ、これほど大きな仕事を短期間に成し遂げられなかったはずです。

そうして、使用人たちから集まった報告をまとめて、”企画書”を幕府に提出したのです。

その要点は以下のようなものでした。

① 使用する船を選定。

② 最上川上流の天領から河口の酒田への米の運び方のルール作り。

③ 酒田での米の保管方法の見直し。

④ 酒田での船積み費用の負担者の変更。

⑤ お城米船であることがわかる幟(ノボリ)を立てさせる。

⑥ 途中寄港する諸港での入港税の免除。

⑦ 寄港地の特定と立務所(海の関所)の設置。

⑧ 関門海峡の水先案内船の整備

⑨ 航海の時期を気候が安定した時期の限る。

⑩ 以上の提案の是非を自ら確認するために、全行程を自ら訪れてチェックする。

一言でいえば、『安全航行の仕組みを全国レベルで取り決めましょう』という内容です。

詳細は次回へ。

またまた、退屈なお話のお付き合い下さってありがとうございました~~。



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by sakenihon | 2009-08-19 00:35 | 日本の歴史