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天吹酒造 花酵母しぼりたて

天吹酒造の製造ぶちょ~さんからお土産をいただいてしまいました。

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本当に搾ったばかりの今年の新酒です。

花酵母で仕込んだ 『限定 初しぼり』 です。 

わ~い!  大喜び! 

おっと このお酒、普通酒です。

醸造用アルコールはもちろん、糖類まで添加されています。

ぶちょ~さんいわく 「こっちの人は甘口なんです。」

三倍醸造酒の糖類添加とは意味合いが違います。

糖類を添加しなくても立派に成り立つお酒なんですが、

地元の飲み手はそれ以上の”甘さ”を要求するんですね。


酒類総合研究所の資料にこんなものがあります。
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佐賀県は全国でも珍しい甘口好みの県なんですね。

純米酒至上主義の方からは叱られそうですが、私が生まれる前から日本酒を生活の一部

として親しんでこられた佐賀の飲み手は純米酒であろうがなかろうが、糖類が入っていようが

なかろうが、美味しく感じる酒は甘口の酒ということなんですね。 

それこそ”地酒” それでいいと思います。


では、どうして佐賀がこんなに甘口嗜好になったのか?

いろいろな背景があると思うのですが、のんべえは”炭鉱”起源説です。

有明海沿いの三井三池炭鉱、伊万里湾付近にも炭鉱がありました。

少し北には麻生元首相の地元、筑豊もあります。

かつてはこのエリアで全国の60%の石炭が掘り出されていたと聞きます。

そこには真っ暗な坑道のなかで働く、ものすごい数の炭鉱労働者が存在したのでしょう。

重労働を終えた後の彼らの骨休めが日本酒であったことは容易に想像できます。

疲れた体がほしがるのはスッキリした辛口ではなく、濃厚な甘口だったと思います。

そうやって、この地方の味覚嗜好が形成されたのではないか・・・・


この搾りたてをいただきながら、そんなことを考えていました。

もちろん、いただいた4合ビンはあっという間に空っぽです。

この初しぼりは普通酒ながらも雑味とは無縁。

本当にスッキリとした甘さ、花酵母の優しく爽やかな香り。

冷やして飲むと、本生のフレッシュ感が引き立ちます。

ブラインドテイストでは吟醸と間違われるかも?


歴史の中で形作られた味覚嗜好と最先端のバイオ技術で生まれた花酵母の良さを

ピッタリとマッチさせた最後の力は、やっぱり人間なんですね。



地方にはすごい普通酒が隠れているようです。 

それらは安すぎて流通に乗らず、首都圏やネット販売でもほとんど取り上げられていないようです。

これから、普通酒にも目を向けていきたいと思いますねえ。


またまた、長くなってしまいました。  病気ですね。


このお酒、佐賀県内だけの限定販売。
価格は1800mlは2,016円、720mlが1,020円。
ご興味のある方は直接、天吹酒造さんへ。
電話 0942-89-2001




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by sakenihon | 2009-12-03 14:47 | 酒蔵めぐり  

北前船と日本酒 【富山 満寿泉】

北前船は佐渡を出港すると、次の目的地は能登半島となります。

しかし、今回は能登半島の手前の富山に寄港することにしましょう。

なぜなら富山の港には、 『満寿泉』の桝田酒造店があるから。
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明治26年創業の桝田酒造店の生い立ちは北前船と深い関係があります。

以下、桝田酒造店のHPからの転載です。
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かつて北前船(地元ではバイ船と呼ぶ)の交易で栄えた廻船問屋の町家や料亭のたたずまいに往時の繁栄が漂います。桝田酒造店はこの界隈のなかほどに蔵を構えています。

初代亀次郎はその当時、岩瀬の五大家と言われていた廻船問屋から妻を迎え、その北前船にのり、開拓の地 北海道旭川にて酒造業を興した。
旭川酒造史に「都松」の商標で最初に出てくるのは明治26年のことである。
年間1500石と明治年間としてはとても大きな規模まで成長するが、妻のフデが明治36年の寒波のあと「もう岩瀬に帰りましょう」と言い出し明治38年に現在地に戻った。
 岩瀬では岩泉という銘柄で始めたが、港の芸者衆にも飲んでもらう為、昭和の始め頃、今で言う別ブランド展開で苗字の桝田にちなんで「満寿泉」とまことにめでたい名をつけ販売した。
それが成功し現在は満寿泉が主力ブランドになる。
======================================
のんべえはこの文章を読んで以来「北前船」が気になり始め、今に至ってます。

桝田酒造店のある東岩瀬はまさに船が接岸する岸壁にあります。

酒蔵から100mほどでこんな風景も見ることができます。
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上の写真のすぐ左側に並行して古い街並みが残っています。
現在その町並みは歴史保存地区となっています。
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     回船問屋 森家
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     銀行も町並みに溶け込んでいます。
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     こちらは鍼灸院でした・・・


【吟醸蔵と三盃杜氏】

こんな歴史ある『満寿泉』さんは昭和40年代初頭から吟醸酒造りに取り組み続け、

元祖”吟醸屋さん”として名高いお蔵さんです。

現在でも全石高1500石中70%を吟醸酒が占める酒蔵です。

この『満寿泉』を50年間にわたって醸し続けてこられたのが、三盃(さんばい)幸一杜氏です。

能登杜氏四天王の一人とも称せられる名人杜氏。

実父から満寿泉の杜氏を引き継ぎ、1958年からずっと満寿泉一筋。


普通、吟醸酒は蓋麹法という方法で麹造りを行いますが、三盃杜氏は”床麹法”で造ります。

一般には”床麹法”は普通酒などの麹を大量に造る場合に用いる方法。

吟醸酒には向かないといわれていますが、三盃杜氏はこれで大吟醸も造ります。

一見荒っぽいようですが、三盃杜氏は手先で麹の顔が見えるというのです。

経験が教科書を超えたということなのでしょうか。
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f0193752_20244387.jpgなぜ床麹で造るのかなどの詳細は「挑戦する酒蔵」(酒造環境研究会編)に詳しく紹介されています。

上記の写真も同書の1ページから拝借しております。 ごめんなさい。

(この本には「大七」「だるま正宗」「自然郷」「福光屋」なども詳細に紹介されてます。ご興味のある方はどうぞ。)



残念ながら、三盃杜氏は平成17年の造りまでで引退されました。

この50年間、お正月を自宅で迎えたことが一度もなかったそうです。

杜氏という仕事の大変さがうかがわれます。 お疲れさまでした。

平成18年・19年は後を託す堂目杜氏への引き継ぎはされていたようです。

平成20年の造りからは完全に堂目杜氏の造りとなっているようです。

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そこで、こんなお酒を入手しました。

三盃杜氏の造り最後の年となった平成17年の満寿泉。

『満寿泉 純米大吟醸 無ろ過生酒』

完全な低温貯蔵で4年間寝かせたお酒。



栓を開けるのが勿体ないようです。

気合いを入れていただきます。

その結果はまた後日。



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by sakenihon | 2009-08-29 22:30 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓成功のポイント

またまた、河村瑞賢ネタに戻ります。
文字ばかりで、面白くないと思いますがご勘弁を・・・

8月19日の「河村瑞賢 西廻り航路開拓 その三」のつづきです。

瑞賢が幕府に提案した”企画案”への補足です。

② 最上川上流の天領から河口の酒田への米の運び方のルール作り。
 天領の米を最上川の川船で河口まで運んで、いったん集積します。
 その運賃は従来、民間が負担していたため人民が重課に苦しんでいたので、これを官費とした。
 さらに、従来は上流の船ばかりを使っていたが、上流・下流わけ隔てなく使うように変える。
 これにより船持が均しく富んで船も堅牢になり、輸送が安定することとなる。

③ 酒田での米の保管方法の見直し。
 最上川の河口に集めた米の貯蔵場は、従来民間の私物と一緒に置いていた。
 しかし、これでは万一の災害の際に被害が大きくなるので、御城米専用の蔵を設ける。
 (当時は火災の危険性が大きかったようです。)

④ 酒田での船積み費用の負担者の変更。
 酒田での船積み費用は従来は酒田の領主(酒井家)の負担だった。
 これをすべて幕府負担とする。

⑤ 御城米船であることがわかる幟(ノボリ)を立てさせる。
 東廻り海運の時と同じく、幕府御用船であることが分かるようにする。
 このことで通過する藩からの協力・援助が受けやすくなる。

⑥ 途中寄港する諸港での入港税の免除。
 従来、北国の諸港では運搬船に入港税を課してた。
 そのため、船頭は税を免れるためになるべく港に寄港しないで、無理な航海をしていた。
 その結果、遭難・転覆が多発していた。
 瑞賢はこの入港税の徴収をやめさせるよう、幕府から諸藩に通達を出させた。

⑦ 寄港地の特定と立務所(海の関所)の設置。
 途中の寄港地として以下の10か所を定め、立務所を置く。
 立務所では関所のように人や荷物の出入りのチェックのほかに、荷物の積み過ぎなども
 目を光らせて安全な航海となるようにする。
 小木(佐渡)、福浦(能登)、柴山(但馬)、温泉津(石見)、下関、
 摂津(大阪)、大島(紀伊)、方座(伊勢)、畔乗あのり(志摩)、下田(伊豆)

 また、周辺の幕府代官や諸侯へ御城米船の保護を命じた。

⑧ 関門海峡の水先案内船の整備
 下関の海峡は海中に岩礁が多く通過が難しいので水先案内船を備えるように命じる。
 また、流れが速いので無理に近道をして座礁などしないよう命を出す。

⑨ 航海の時期を気候が安定した時期の限る。
 毎年春分前後は強い西風が吹くので、その時期を避け、北上すること。

⑩ 以上の提案の是非を自ら確認するために、全行程を自ら訪れてチェックする。
 輸送船が通過する各港を瑞賢自らすべて詳しく視察するため、旅に出る許可も幕府から取った。
 さらに、そのついでの当時唯一外国船が集まる長崎への視察も許可を取った。
 (この視察旅行には瑞賢の長男伝十郎を伴った。)


以上のような瑞賢の提案を幕府はすべて受け入れました。

提案の内容は幕府の支出が増える内容も含まれていることの驚きます。

むやみにコストを下げるのではなく、ムリ・ムラ・ムダをなくすことでトータルをスムーズに

進めようとする瑞賢らしい提案だと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

寛文12年(1672年)3月、瑞賢は江戸を発って酒田に向かいました。

酒田に着いたのが4月8日。

公儀御役人の格式で堂々と乗り込んだそうで、宿へは鶴岡の庄内藩主から度々贈り物

があったそうです。

伊勢の農民として生まれた河村瑞賢に対して・・・・・そうゆうことが有り得たんですねえ。

(この辺にも徳川封建制の柔軟さを感じてしまいます。)


5月2日に御城米を積んだ船が初出帆し、5月10には瑞賢親子も酒田を出発しました。

酒田を出て徒歩で北陸道から山陽道へと立務所を設けた港を巡りながら下関へ至り、

船で九州へ渡り、長崎を訪れたそうです。

帰路は下関より船で瀬戸内海の航路を視察しながら大阪に至り、京都から東海道を経て

江戸へ戻ったとのことです。

この間、2カ月弱の旅だったようです。 

お疲れ様です。 瑞賢すでに55歳。 

人間の脚は大したのもです。 昔の人は強かったんですねえ。


城米を積んだ船は一隻の沈没・破損もなく、7月に次々と江戸へ到着したそうです。

酒田から約2カ月で減損もなく大量の米を運べたことは、当時では考えられない奇跡。

それまでは減損しながら、1年以上掛っていたのですから。


このように、航路が安全になり、海運の改善への貢献大ということで、幕府はこれを賞して

瑞賢に金三千両を賜与したそうです。

このように、瑞賢の行動が仔細に解るのは新井白石『奥羽海運記』を残しているためです。


以上、『河村瑞賢』 古田良一著 吉川弘文館 からの抜粋です。


次回からは、この西廻り航路にちなんだお酒をネタにしてゆきたいと思っております。

どこまで続くやら・・・・




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by sakenihon | 2009-08-24 22:45 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 【塩飽衆】

河村瑞賢が幕府に提出した企画書の一番は「使用する船の選定」です。

東廻り海運では堅牢さと航海技術の優秀さで伊勢近辺の船を使いました。

今回はもっと要求レベルが高いし、もっと広い選択が可能です。

そこで、瑞賢が選んだのが【塩飽衆(しわくしゅう)】でした。


徳川封建制下では領土は幕府直轄の「天領」とそれ以外の「大名領」が原則。

ところが、どちらにも属さない一種の「自治領」が存在したらしいのです。


現在、岡山と高松を結ぶ瀬戸大橋が通る”与島”とその西側に連なる本島・牛島・広島など、

二十以上の島を塩飽諸島と呼びます。
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この島々を本拠にしていた塩飽水軍(元は海賊)がおりましたが、信長の本願寺攻め、

秀吉の小田原攻め、朝鮮出兵などに加勢して手柄を立てたことで、秀吉から特別の加護を

受けました。

秀吉は中心的な島民650人(塩飽衆)に朱印状を与え、独自の自治を許したのです。

その後徳川家康・秀忠も同様の取り扱いを許しました。

彼らは日本一の航海技術と堅牢で精密な船舶を持っていただけでなく、人心が純朴だったようです。


瑞賢は西廻り海運において、彼らに白羽の矢を立てました。

何かの事業を行う時、『人・物・金』が重要といわれます。

瑞賢は、とりあえずこれで”人”については選択を終えたのでしょう。

幕府も塩飽衆のことは十分知っていたでしょうから、反対はしなかったでしょうね。


塩飽衆は全盛期の元禄期には船数200槽、船員3000人まで拡大し全国で活躍していました。

彼らの足跡は津軽・松前まで残っているそうです、

彼らの操船技術はその後も進歩し続け、日本の海運に大きく貢献したようです。

咸臨丸のアメリカ航海時の水夫50人中35人が塩飽衆だったと聞くと驚きます。

明治以降の海軍でも塩飽衆出身者が活躍したということです。


また、彼らは金毘羅信仰が厚く、金毘羅の旗を押し立てて各地の港に寄港しました。

金毘羅参りが盛んになるのは江戸中期からですが、金毘羅信仰拡大にも塩飽衆の影響が

大きかったようです。



※今回の記載内容は「北前船 寄港地と交易の物語」(無明舎出版)からの受け売りです。)


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by sakenihon | 2009-08-21 02:36 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 その三


1672年に酒田(山形県)から江戸への米の廻漕を命じられた瑞賢でしたが、

まずは概略のルート設定を考えなければなりません。

酒田から江戸であれば、いったん北上して津軽海峡を廻って東廻りで南下するのが早道。

しかし、以下の理由でそれは選択されませんでした。

① 津軽海峡の急流の危険性。

② 太平洋岸に良港が少ない。

③ 太平洋岸の諸国より日本海側のほうが交易物資が豊富。

④ すでに日本海ルートの蝦夷~敦賀間には航路が存在していた。

③の点では、加賀藩をはじめとした日本海側各藩の米の効率輸送需要があります。
昨日述べたとおり、東北の各藩は余剰の米を抱えており、これを換金するために効率いい輸送が望まれたのです。
実は、加賀藩は河村瑞賢よりも30年も前から下関廻りでの輸送に挑戦していました。
しかし、うまくいってなかったため、従来の敦賀からの陸路ルートが主流だったようです。
つまり日本海廻りルートには膨大な潜在的需要があったのです。

④については私の独自の考えですが、青森の十三湖を本拠とした豪族「安東氏」の存在が浮かびます。
安東氏は安東水軍とも呼ばれる強力な航海術を有した集団で、蝦夷のアイヌとの交易窓口であっただけでなく、中国大陸との交易をおこなっていたそうです。
当然ながら秋田・新潟などとの交易もあったはずで、この海域の航路開発や港湾のインフラ整備にも深く関与していたのではないかと、夢想しております。

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またまた、脱線してしまいました。

瑞賢は下関廻りの航路を想定し、使用人を瀬戸内海の備前・讃岐などの諸国に遣わしました。

使用人たちは沿海の住民から、航海に関する利害関係・航路の地理・港湾の状況などを詳細にヒアリングし、逐一瑞賢に報告しました。

同時に出発地となる酒田へも、東廻りの時に荒浜に同行した番頭を派遣します。

東廻りの時には、下調べも瑞賢自らが動きましたが、それに同行した使用人たちはその経験から、何をどのように調べたらいいのかを会得していたのだと思います。

瑞賢は人の使い方も長けていたのでしょう。 部下との信頼関係もできていたと思います。

そうでなければ、これほど大きな仕事を短期間に成し遂げられなかったはずです。

そうして、使用人たちから集まった報告をまとめて、”企画書”を幕府に提出したのです。

その要点は以下のようなものでした。

① 使用する船を選定。

② 最上川上流の天領から河口の酒田への米の運び方のルール作り。

③ 酒田での米の保管方法の見直し。

④ 酒田での船積み費用の負担者の変更。

⑤ お城米船であることがわかる幟(ノボリ)を立てさせる。

⑥ 途中寄港する諸港での入港税の免除。

⑦ 寄港地の特定と立務所(海の関所)の設置。

⑧ 関門海峡の水先案内船の整備

⑨ 航海の時期を気候が安定した時期の限る。

⑩ 以上の提案の是非を自ら確認するために、全行程を自ら訪れてチェックする。

一言でいえば、『安全航行の仕組みを全国レベルで取り決めましょう』という内容です。

詳細は次回へ。

またまた、退屈なお話のお付き合い下さってありがとうございました~~。



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by sakenihon | 2009-08-19 00:35 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 その二


河村瑞賢を続けますが、本題に入る前にもう少しだけ時代背景を付け加えます。


なぜ、幕府は東北地方の天領の米(御城米)を江戸へ移動したかったのか?
幕府の上層部が心を砕くような大きな問題があったのか?

この疑問を解くカギは人口問題にありました。

【日本の人口推移】
 1150年 (平安末期)    6,837千人
 1600年 (開幕時)    12,273千人
 1721年 (享保6年)    31,279千人
 1804年 (文化元年)   30,746千人
 1873年 (明治6年)    33,300千人

実は17世紀は日本列島では人口爆発が起こっていたんですね。

1600年~1721年の120年間に人口は2.5倍以上に膨れています。

戦乱が収まり、作物の安定的な収穫ができるようになったことが大きな原因のようです。

その前の450年間では約2倍、その後の150年間では微増ですから、

この120年間の人口増加がいかに急激なものであったかがよくわかりますね。


特に江戸では1657年の明暦の大火以降、急激な人口流入が起こりました。

大火後の市街地再生には多くの人手が必要だったからです。

その後、江戸の街は町並みの整備も進み、著しい経済発展が起こりました。

そして、絶頂期が元禄時代(1688~1703)となるんですね。

反面、慢性的な食糧不足状態に陥っており、幕府にも大きな問題になっていたようです。


さらに、東北地方は人口が少ない割に米の収穫が多く余裕があり、江戸・大阪の大都市圏を中心とした関東以西では人口密度が高く、慢性的な食糧不足というような地域間アンバランスも発生していたのです。

幕府が瑞賢に米の輸送を依頼した1671年は、まさにその状況の真っただ中だったんですね。

そこで、『人口爆発による食糧不足』『食糧の東西アンバランス』の対策として、
幕府は瑞賢にこのような依頼をしたのだと思います。


東廻りに続く、西廻り航路の完成によって、日本列島の物資の動脈が出来上がります。

現在でも同様ですが、すぐれた『物流』がない世界には経済の発展はあり得ません。

このミッションは、その後の徳川幕府の繁栄を左右するといってもいいものだったんですね。

しかし、それも後からわかること。

依頼を受けた瑞賢は”江戸の民衆のため”との想いで、このミッションに挑戦したようです。


前置きが長すぎますねえ~~~
その上、文章が堅い・・・・・・
自己嫌悪。 
でも、書き直す気力も才能もありません。
駄文・長文 お許しください。

明日こそ本編スタートします。

(参考文献)
「人口から読む日本の歴史」 鬼頭 宏著  講談社学術文庫
「河村瑞賢」  古田良一著   吉川弘文館



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by sakenihon | 2009-08-18 00:04 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓 その一

【西廻り航路開拓ミッションの背景】

1671年に福島県の阿武隈川河口の荒浜と江戸の全行程を海運で結ぶ『東廻り航路』の開拓を成し遂げた瑞賢でしたが、その翌年1672年(寛文12年)には、今度は出羽国(現在の山形県酒田市)から江戸への米の輸送を命じられます。

しかし、日本海側には室町時代からすでに北海道~敦賀間の航路ができていました。

太平洋側に比べて航海技術も優れていたようです。

北海道を目指す上り船の主な積み荷はお米。(蝦夷では米は採れませんでした。)

また下り船は昆布・いりこ・干鮑・ニシン加工品や肥料用に大量な魚肥などを運んでました。

航路は北海道から津軽・秋田・佐渡・能登などを経て敦賀付近まで運びます。

敦賀・小浜付近で陸路に変わり、馬で琵琶湖北岸まで運びます。

さらに琵琶湖の湖上海運を利用しながら伊勢・京都・大阪へと運んでいました。

【北前船の航路】  ピンク=北前船 
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(千葉県佐倉市 国立歴史民族博物館 展示資料より)

(ちょっと脱線1)
もし、この北前船による商品の移動がなければ、京料理に昆布が使われていなかったかも。
それ以前に”京料理”が存在しなかったかもしれませんね。
しかし、遥か昔からこの海運はあったようです。
敦賀を経て、伊勢神宮へも蝦夷の海産物が奉納されていたのです。
その結果、お正月の鏡餅や結婚の結納品には昆布・スルメ・干し鮑が付き物ですね。
蝦夷の貴重な海産物は神事には欠かせないものだったんです。
もちろん神事には御神酒も欠かせませんね・・・・

(ちょっと脱線2)
福島県の代表的な酒の肴に「ニシンの山椒漬け」がありますね。
のんべえ、大好きです。
会津若松の居酒屋で”自家製ニシンの山椒漬け”で飲んだ”泉川”は旨かった~~~
福島の山間部でニシンを使った料理が存在するのも、山形県酒田付近で降ろされた蝦夷の身欠きニシンが陸路で福島へ流通したためですね。


北前船は輸送代金を稼ぐ運送業でありません。

場所による商品価値の違い、相場を利用して売買で儲ける『動く総合商社』でした。

北前船は江戸期から明治期まで活躍します。

その裏には近江商人の存在がありました。

早くは信長・秀吉の時代から蝦夷を目指した近江商人がいたそうです。

琵琶湖の東岸、彦根・近江八幡、西岸の高島郡付近からも蝦夷へ向かったり、後には自ら北前船の船主となった商人が活躍し、日本海を取り巻く貿易を発達させました。


このような状況の中で、幕府は近江商人や既存の船主ではなく、河村瑞賢に酒田からの米の輸送を依頼したのでしょう?

その理由としては、
 ① 時間短縮 いったん陸路を通り琵琶湖・大阪と経由するので時間がかかっていたため。
 ② コストの削減 陸路の途中の積み替えの度に米がこぼれたり、通過する領地主への手数料が掛っていたため、陸路を省略したかった。
 ③ 安全な航行 太平洋ほどではなくとも船の難破があり、もっと確実な航海にしたかった。
     などの理由が考えられます。

つまり、敦賀からの陸路は使わず、直接船で下関を廻って瀬戸内海を抜け、大阪から江戸まで安全に運べというミッションです。
それまでに挑戦した人はいたのですが、満足がゆく結果にはならなかったそうです。 

 それにしても、当時は正確な日本地図もなく、どこにどんな港があるのかなどの情報も皆無。
 それどころか、瑞賢は日本海さえ見たこともなかったはずです。
 はるかに遠い西国まで関係してくるミッションです。
 よく引き受けたものです。
 ”感心”を通りこして、呆れてしまいます。

 が、瑞賢はこのミッションも何と1年でやってのけるんです!
 宇宙人か? 


注) 「北前船」の”北前”とは上方から見た日本海を表す言葉だそうです。
   「北前船」と呼ばれたのは、西廻り航路が出来上がり、
   上方や瀬戸内の船が日本海へ向かい始めて後のことです。
   本文中の時代では日本海での呼称である「ベザイ船」や「バイ船」と
   表記するのが適切なのですが、解りやすかを考えて敢えて「北前船」で通します。




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by sakenihon | 2009-08-17 02:17 | 日本の歴史  

河村瑞賢 西廻り航路開拓まで

今日はカミサンの実家(国分寺市)へ行ってきました。

東関東自動車道成田ICから首都高を通過して、中央道の国立府中と、片道130kmの往復。
1000円割引きの影響で、例年になく首都高が混んでいるとの情報もあってハラハラ。
しかし、幸い大変スムーズな流れで行って帰ってこれました。 
日ごろの行い、良かったかなあ? (あまり自信ないけど)

ふーっ!でも疲れた・・・・
まあ、お盆ぐらいは孫の顔も見せないとね・・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、河村瑞賢です。
まずは前回(1月20日~2月9日)書いてた内容をザッとおさらいさせてください。
なにせ書いた本人が忘れてますもん。

以前書いたものを読み返すと、結構よく書けてるし面白いことに驚いた。(自画自賛で失礼)
最近の文章は面白くないですな、堅苦しいです。 我ながら。
初心に戻らなくっちゃ・・・・・・大反省中


【東廻り航路開拓までのまとめ】
1618年 
    伊勢の国東宮村(現 三重県度会郡南伊勢町東宮)にて河村瑞賢生まれる。
    祖父までは武士だったが、戦国乱世に父の代で帰農し、瑞賢は農民として生まれる。

1630年 (13才)
   父は瑞賢の才智を見込んで江戸へ行かせた。
   東宮~江戸は古くから海運関係があり、江戸の事情が入りやすかった。
    詳細はこちら⇒1月20日の記事

1638年頃~ (20才~) 
   江戸で車力(荷車引)として働くもうまくいかず、20才の時上方へ向かおうとする。
   その旅の途中、品川の海で盂蘭盆の瓜や茄子が波間に漂うのを見る。
   それを拾い集めて漬け物を作って売り始める。

   普請場(工事現場)の昼飯時に漬け物を売り歩く。
   その過程で幕府普請役の役人と知り合い、信頼を得て人夫頭となる。
   この経験で土木・工事・材木についての知識を得る。
   また、知り合った材木問屋の船で伊勢へ帰省、銘木の産地 尾州知多にも出向き、
   人脈を得るとともに材木と船・航海の知識を得る。
    詳細はこちら⇒1月21日の記事
   その後、土木業・材木業として独立。

1657年1月18日 (40才)
   明暦の大火(振袖火事)が発生する。
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  (江戸東京博物館展示資料より・クリックで拡大します)

   火は断続的の3日間燃え続け、江戸城を始め、ほとんどの大名屋敷を消失させた。
   瑞賢はそれを見るや、全財産を持って夜を日に継いで尾州知多へ一目散。
   できる限りの高級材を買い占めた。
   さらに、江戸へ材木を運ぶための船も抑えた。
   幕府や多くの藩からの屋敷再建を請け負い、莫大な財産を築いた。
   詳細はこちら⇒1月30日の記事

  その後も多くの普請を請け負い、それらを非常にうまく行い評判が増し、
  幕府からも信用を得てゆきます。

  瑞賢の成功は財産ではなくて、多くの人からの信頼を得られたことなんですねえ。
  やっぱ、人徳がないと人間ダメですねえ。  
  わが身を振り返り、落ち込むのんべえ・・・・・・ああぁぁ・・・


    (ちょっと面白いエピソード)
    「芝増上寺の鐘楼の移動」と「上野寛永寺の屋根瓦修理」のお話
    以前、お読みになっていない方はこちらもどうぞ
     ⇒ エピソード 「出題編」
     ⇒ エピソード 「解答編」

1670年 (53才)
  幕府より、奥州(福島県)の天領米数万石を江戸へ廻漕(船で運ぶ)ように命ぜられる。
  迅速な調査・情報収集・準備に加えて革新的な方法で、これを翌1670年に成し遂げた。
  それまで海運に従事したことがなかった瑞賢が、従来1年以上要していた輸送を50日程度で行ない、さらに一隻の難破・事故もなかったことは、当時の海運事情からすれば驚くべきことだった。 
  これが、『東廻り航路』の開拓です。

  詳細はこちらをご覧ください。(すっごく長いけど・・・・)
    河村瑞賢 奥羽海運改革 その時代背景と経緯
    河村瑞賢 奥羽海運改革 その一
    河村瑞賢 奥羽海運改革 その二
    河村瑞賢 奥羽海運改革 その三

  江戸時代、50才を過ぎてから大事業を成し得たというのは凄いじゃありませんか!
  今、のんべえ自信がこの年代ですが、比較するのも恥ずかしくなります。
  
  しかし、これはまだまだ瑞賢の業績の序章にすぎないんです。
  なにせ、80歳過ぎるまで全国を駆け巡りながら、多くの事業を成し遂げるんですから。
  それも私利私欲ではなくて庶民が豊かになるために、私財をなげうってでもというスタンス。

  まるで、松下幸之助さんと田中角栄さんと水戸黄門さんを足したような人ですわ。 

  奥州米の廻漕の大成功を見た幕府は、
  その翌年今度は出羽国(山形県)からの米の輸送を命じるのです。

  これが、『西廻り航路』開拓のスタートとなります。  
    
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by sakenihon | 2009-08-16 02:26 | 日本の歴史  

河村瑞賢 ふたたび


唐突に”河村瑞賢”の伝記を半年ぶりに再会したいと思います。

先日、勝鬨橋から隅田川の流れを眺めてて、中断してたことを思い出しました。


河村瑞賢は日本国内の船による物流システムを構築した人です。

東北・北陸で収穫された米を大阪へ運び、灘・伏見の酒を江戸へ運ぶというような、

日本各地の産物や物資の移動の仕組みを作り上げた人です。

伊勢の田舎から出てきた農民であるにもかかわらず、大八車の車力から身を起こし、

最後は将軍に謁見するまでになった、凄い人です。

河村瑞賢の功績がなければ、江戸時代の歴史が少しは変わっていたのではないか?

江戸の庶民が手軽に日本酒を飲めていなかったのではないか?

もし、現代に瑞賢がいて、総理大臣になれば今の日本ももっと良くなるだろうなあ・・・

なんて、考えてしまいます。


前回は瑞賢が伊勢から出てきて、”東廻り航路”を開拓するまでを、延々と記載しました。

しかし、これは瑞賢の功績のほんとの端緒だけです。

そのあとに、西回り海運、大阪の治水、鉱山開発、など大きな功績を残しています。

できるだけ、簡潔にまとめたいと思います。


右下のタグに”河村瑞賢”がありますので、ここで関連の過去記事をご覧いただけます。

もし、ご興味がある方はご覧ください。


興味のない方には申し訳けございません。
しばらくシカトしてください。

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by sakenihon | 2009-08-14 03:03 | 日本の歴史  

『アルコール添加』と『柱焼酎』

千葉は土砂降りでした。
しかし、今日は終日東京都内でふ~らふら。
都内はそれほど降りませんでした。
千葉と東京、近いようでけっこう天気や気温が違います。


さてさて、予告しておりました『日本酒へのアルコール添加』の問題についてです。

『アルコール添加』とは、「醸造用アルコールと呼ばれる甲類焼酎を仕込み中に投入する」こと。

その目的としては大きく分けて以下の4つだと思います。

① モロミのアルコール度数をかさ上げし、それを加水して薄めることで製造量を増やす。

② 腐造の防止

③ もろみ中の香気成分、旨み成分を引き出す。

④ もろみのアルコール発酵を強制停止させる。



特に①は第二次世界大戦前後の米不足を補うために、国が三倍増醸酒の製法を開発し、昭和24年にはそれを制度化し、酒蔵に対して半強制的に三増酒生産を推し進めた国策に端を発しています。極端なアルコール添加、合成清酒の大増産のスタートです。

今では無茶苦茶な政策と思うでしょうが、当時の日本の経済状況の中では仕方がなかったか・・・

しかし、現在の日本はそんな時代ではないのですから、そのような発想での酒造りは止めてほしいし、続ければ消費者離れを加速させるだけです。
かさ増しが主目的の醸造用アルコール添加には、のんべえは反対です。(当たり前か・・・)


しかし、この三倍増醸酒の出現以前にも古く江戸時代から、日本酒の仕込みに焼酎を用いることは行われていました。
それは『柱焼酎』と呼ばれる、日本酒造りの一つの技法です。
当時は連続蒸留法はありませんでしたので、甲類焼酎ではなく、酒粕から造った粕取焼酎や米焼酎等の乙類焼酎を添加していました。
その目的は、当時の酒づくりで多発していた『火落ち』『腐造』を防止することでした。

焼酎を使うと腐造を防ぐだけでなく、酒自体の味や香りがしっかりとすることも知られていました。

モロミの中には多くのアミノ酸によって構成された香気成分や旨み成分が含まれています。
ところが、これらの成分はアルコールには溶けるが、水溶性ではないのです
したがって、普通にモロミを搾って酒粕とアルコールを分離しようとしても、日本酒のアルコール度数が低いために、それらの成分の多くは酒粕側に残ってしまいます。

しかし、そこに高濃度のアルコールを添加すると、香気成分や旨み成分はその高濃度アルコール中に溶け出すのだそうです。
高濃度アルコールが、モロミから成分を引きずり出してくれるともいえますね。
結果としてお酒の香りや旨みが増すことになるのです。

(ウイスキーを水割りにすると香りが増すのも同じ原理。度数が下がることで、アルコール中の香気成分が揮発するためにおこる現象です。)


ですから、三増酒のアルコール添加と柱焼酎とはその目的が全く違うのです。
現代では腐造はほとんどなくなりましたので、香気・旨み成分の引き出しがアルコール添加の主目的であるべきなのです。
特に吟醸酒では、その命ともいうべき香気成分抽出には重要なファクターです。
高濃度アルコール(=焼酎)をうまく利用して、酢酸イソアミル(バナナ・メロン香の元)やカプロン酸エチル(リンゴ香の元)などの大事な香気成分を効率よく抽出するのです。

さらに、大吟醸酒などではもろみが元気であっても、目標のアルコール度、日本酒度に達した場合には強制的に発酵を停止させて、狙った通りの酒質に仕上げるためにアルコールの添加することも酒造の技術として存在します。(ビールやワインの世界にも存在する技術だそうです。)

上記のような高濃度アルコールの働きを理解すれば、菊姫さんの吟醸酒が全量アルコール添加であることも、また各日本酒鑑評会に出品されるお酒の80~90%が純米ではないこともご理解いただけると思います。


私の主観ですが、同じ銘柄・同条件の『純米大吟醸』『大吟醸』を飲み比べると、『大吟醸』のほうが、より旨みが豊かで香りの広がりも大きいように感じたことがあります。


つまり、『アルコール添加=絶対悪』ではないと思うのです。
問題はその目的と添加量(比率)、さらに添加技術ではないかと思うのです。


では、獺祭の旭酒造さんは、どうしてアルコール添加をしないのでしょうか?
その辺の話は、また次回。


以上、のんべえのわずかな知識と独断でお話を展開しました。
おかしな点、間違った点がありましたらご指摘ください。
間違いは即修正させていただきます。
よろしくお願いいたします。



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by sakenihon | 2009-07-24 01:57 | 日本酒の作り方