上野寛永寺 つづき
江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜は慶応3年(1867年)10月15日、京都にて大政奉還
を行います。
その後、慶喜公は江戸の戻り、翌慶応4年2月12日から4月11日(江戸城無血開城の日)まで
の間、自ら寛永寺で謹慎し江戸城無血開城を見届け、その日に生家の水戸へ向かったそうです。
現在でも寛永寺にはその謹慎時に使われた二間続きの部屋が『葵の間』として残されています。
慶喜公が水戸へ向かったわずか一か月後の慶応4年5月15日、彰義隊ら旧幕府軍は徳川家
菩提寺である寛永寺に集結し、薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍との間で戦いが起こります。
これが戊辰戦争の一つで『上野戦争』と呼ばれる戦いです。

その彰義隊を壊滅する口火を切ったのが西郷さんだった
といいますから、西郷さんの銅像が今の場所にあるのも
すごい因縁ですね。
戦はわずか半日で新政府軍の勝利に終わり、
彰義隊はほぼ全滅し敗走します。
ここで生き延びた彰義隊は船で平潟港(現在の北茨城)へ逃げ、いわき方面と会津方面へ
流れてゆくのですが、この平潟港を200年前に開いたのも河村瑞賢でした。
まさか瑞賢も自分が開拓した航路がこのように使われるとは想像してなかったでしょうね。
その後、西郷隆盛も『西南の役』によって逆賊として、51歳の生涯を鹿児島城山で終えます。
上野の山に銅像が竣工されたのは、西郷さんが賊名を除かれ名誉回復した後の明治30年に
なってからです。

そして、西郷さんの銅像のすぐ後ろには、
ここで戦って敗れた彰義隊の墓が
ひっそりと建っています。
あの世でも敵同士なんでしょうか?
それとも仲良くやっているんでしょうかね?

実は、この上野戦争が起こったために、寛永寺のほとんど全山が焼失してしまったのです。
徳川家の菩提寺焼失のきっかけを幕府軍が作ってしまうとは、なんという皮肉でしょうね!
それによって、寺の境内地のほとんどが明治政府に没収されてしまうことになります。
後の第二次世界大戦の空襲でも大きな被害を受けますが、それでも上野戦争がなかったら
上野の街は今とは随分違っていたのではないでしょうかね。
でも、もし寛永寺が昔のまま残っていたら、都内有数の歓楽街としての今の上野はなかった
わけで、のんべえの楽しみも減っていたということですねえ・・・・。
ところで、『上野の山』って言いますよね。
この『山』って、もしかして『東叡山』の『山』の意味なんでしょうか?
上野に山はなさそうだし、『成田山』だって山の上にあるわけじゃないけど『成田山』だし、
『上野の山』っていう表現は、そこがお寺だったという証し何でしょうかね~~~
なんてことを考えながら、現在の上野の繁華街を見下ろすのんべえでした・・・・・・

正面方向が江戸城ですので、寛永寺参りの将軍様の行列がこちらへ向かって進んで来ていた
いにしえをご想像くださいませ。
2つのランキングへ参加してま~す。
お手間をかけますが、ポチっとワンクリックのお恵みを!
日本酒関連のブログがいっぱい!酒ブログランキングへ⇒⇒⇒

お酒全般!人気ブログランキングヘ ⇒⇒⇒ 人気ブログランキング
by sakenihon | 2009-01-26 22:49 | 日本の歴史