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河村瑞賢 奥羽海運改革 その一

瑞賢が幕府からの奥羽海運改革事業の要請を受けるに至った経緯を先に記載しました。

いよいよ、これからがどうやってその事業を成し遂げたかに入ってまいります。

この事業は瑞賢が成し遂げた事業の中でも最も重要なものであり、続く西廻りの航路開設

のノウハウもすべてここで蓄積されたのでした。


そもそも、それまでの奥羽(東北)地方から江戸への物資輸送がどのようになされていたかを

簡単に説明いたします。

江戸以前は全国から京都へ物資が集まる仕組みでしたので、日本海側の海運が大変発達して

いました。 室町時代にはすでに蝦夷(北海道)から津軽~酒田(山形)~富山~能登を経由し

敦賀・小浜(福井)へ至る海上ルートができていました。

敦賀で下ろされた荷物は陸路で琵琶湖北岸まで運ばれ、さらに船で琵琶湖を縦断し河を通って

宇治~京都~そして大坂の淀川河口へ至るのです。

大坂で一度蓄積されたのち、『菱垣廻船』とよばれる積み合わせ船で伊勢~尾張などを経由

しながら江戸まで運ばれるという大変遠大なルートで運ばれていました。

酒田から大坂経由の江戸まで運ぶには最低2年はかかっていたと思われます。

さらにこのルートで運ばれたのは昆布や繊維類などの保存がきく物だけで、米が運ばれる

ことはありませんでした。


もう一つのルートとしては仙台付近の諸藩が藩米を江戸に送っていたルートで、仙台から30km

ほど南の阿武隈川の河口の『荒浜』という港から、太平洋を南下して江戸へ向かう

方法です。

しかし、こちらは海運の歴史が浅く航海の技術も未熟であったため、江戸へ海運だけで輸送

することはできませんでした。

途中の『なかみなと』(北茨城 那珂川の河口)に入り、そこから河川用の小型船に積み替えて

涸沼を通り、一度陸路を通って霞ヶ浦~利根川を経由して江戸へ至る、という方法がとられて

いました。

当然、何度も何度の積み替えられますので、米俵の中の米は隙間からこぼれだし、輸送中に

かなりの量が失われるといった状態でした。

さらに、『なかみなと』は300石程度の船でも入れないほどの小さな港であり、輸送量は非常に

限られてしまいました。

この方法だと秋に収穫した米を翌年の春に荒浜から積み出し、江戸へ到着するのはそれから

一年以上後という状態でした。


または、もう少し太平洋を南下して千葉県の銚子まで来て、利根川を遡って江戸へ至るという

方法もありました。

銚子であれば300石程度の船の入港も可能でしたし、なかみなと経由よりも早く運べましが、

途中の鹿島灘や九十九里には避難できる港がほとんどないため、当時の貧弱な船ではチョット

した天候の変化で難破してしまうという致命的な問題がありました。

地図検索を使って、宮城県付近から東京までの太平洋岸の地形を良く見てみますと、確かに

のっぺりとした海岸が多いことがわかります。


当時の船が海岸線から大きくは離れず、陸地の地形の特徴を見ながら航行しますので、航行

できるのは昼間だけで、風待ち・潮待ちを繰り返しながら少しづつ進むという航海でしたので、

旅人の歩行の方が遥かに早いといった状態でした。

瑞賢がこの海運改革を引き受けた時には、このような実情は全く把握できていませんでした。

そこで、瑞賢は依頼を受けてまもなく、番頭をはじめとする数人の部下に、荒浜までの海岸線を

歩いて、地形の様子を確認させるとともに情報の収集を行ってくるよう指示します。

                         明日へつづきます・・・・




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by sakenihon | 2009-02-02 02:03 | 日本の歴史  

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