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河村瑞賢 奥羽海運改革 その二

『奥羽海運改革 その一』の続きです。

寛文十年(1670年)、河村瑞賢は幕府勘定方の都築新左衛門から、奥羽(東北)地方の

天領の米を江戸へ運ぶ廻船事業を依頼されます。 瑞賢が53歳頃のことです。

具体的には阿武隈川の河口の『荒浜』から数万石の米を江戸へ、スピーディーに運ぶ方法の

開発です。

依頼を受けてすぐに瑞賢は、番頭をはじめ信頼できる部下を数人選び、江戸から荒浜までの

海岸線と沿岸の港の様子を調査するように命じ、図面も添えて報告書を作成させ、それを

もとに幕府と方策を建議しました。

その結果、瑞賢が出した方針は以下の通りです。

① 港湾整備

  途中の寄港地は常陸(現茨城県)の平潟・那珂港、銚子、安房(南房総)小湊として

  そこには立務所をおいて、船が決められた通りの運航を行っているかをチェックさせる

  とともに、難破などの際の対応策を取りきめました。
 
  当時の各寄港は極めて狭く小さなものであったため、湾口を広げるなどの整備もできる

  限りは行ったようです。


② 船の選択

  廻船に用いる船は、当時東北地方で使われていた『二形船(ふたなりぶね)』ではなく、

  より技術が発達した上方~伊勢・尾張~江戸の航路で使われていた『弁財船』という船を

  使うことにしました。

  『弁財船』は当時の船の中では最も堅牢な船な大型船(300~500石)でした。

  『二形船』の帆は小さな筵帆(むしろほ)でしたが、『弁財船』は刺帆(さしほ)と呼ばれる

  木綿の帆で、より早く走れる船です。
  
  『二形船』は櫓も使いますが、『弁財船』は帆だけで航行でき、より沖合を走ることが

  できます。

  『二形船』は陸地近くから離れずに航行するため座礁する危険性も高かったようです。


③ 安全な航路
  
  航路の難所は房総半島を廻るときと、その後海岸に沿って江戸に向かう箇所でした。

  房総半島の突端、野島崎・洲崎を廻る急な方向転換は、よほど都合よい風が吹かなければ

  帆船では困難でしたので、岬を廻ったところで陸地側に打ち付けられるような遭難が

  大変多かったようです。

  そのために、銚子までで海路をあきらめて、小型の船に乗せ換えながら利根川を遡って

  江戸へ至るという方法がとられていたのです。

  そこで、瑞賢は無理に風に逆らうことをせず、野島崎から風に乗って一旦は伊豆大島へ

  向かい、そこから伊豆下田や三浦半島を経由し、風向きが変わるのを待ちながら徐々に

  江戸へ向かうというルートを取らせることにしました。

  一見遠回りのように思われるのですが、利根川ルートよりは遥かに早く、難破のリスクも

  最小限にすることで、結果的には速く低リスク(=低コスト)での輸送ができると考えた

  のです。


④ 最高の技術とマンパワー

  船頭・水夫は当時技術が優れていた伊勢・尾張・紀伊から熟練したものを選び、その

  船員の妻子を保護して後顧の憂いをなくすように、幕府に約束させました。

  つまり、船員に生命保険を掛けてやったということですね。

  当時の幕府や商人は安く運ぶために目先のことしか考えず、船も水夫も悪く、一刻も

  早く運ぶために天候も顧みず、最短のルートを無理に航行した結果、多くの船と船員が

  船荷とともに海に沈んで、元も子もないという状態でした。

  瑞賢は全く反対の方法(堅牢な船・熟練の水夫・安全なルート)で改革を行ったということです。


⑤ 幕府のバックアップ

  船にはお城米船(幕府御用船)の印の幟(のぼり)を立てさせ、沿岸諸藩・代官に命じて

  その保護に当たらせました。


⑥ 無理な航行の禁止

  船足を定め、沈没防止のため積み過ぎをしないように喫水線を決め、違反がないように

  立務所で検査をさせました。


⑦ 船員のモチベーションアップ

  船荷の御城米の量は厳重に管理し、船員の食糧米は別に寄港地で買って積み込むが、

  その食糧米の量は常に多めに積ませていました。

  しかし、万一遭難しそうな場合は、その食糧米から先に海中に投げ込むように命じました。

  また、航海中の博打を禁じるなど船員には厳しい規律を作ったが、無事に江戸に着いた

  場合は余った食糧米は船員に与え、売って儲かるようにしたそうです。

  『アメとムチ』の管理方法ということですが、船員たちはこれを喜んで受け入れたと

  いいます。

  
  瑞賢が提案した、以上の改革案は幕府がすべて受け入れ、その後の西廻り改革でも

  取り入れらます。

  そしてここでの取り決めが、瑞賢の死後も幕府が定めたルールとして遵守され、

  その後長く明治時代まで続く和船による国内海運の基礎となりました。


  
  おわかりいただけたでしょうか?

  河村瑞賢の改革はすべてといってもいいほど、『全体最適』の考え方が根底にあります。

  目先のコストではなくて、全体を鳥瞰して何を変えるべきか? 問題のボトルネックは

  どこにあるのか?
を的確に把握してから改革を行うのです。

  事前に問題点を徹底的にあぶりだして、その問題が発生しないような仕組み造りを行う

  というやり方は、現代のクオリティーコントロール(QC)の考え方と同じです。

  この21世紀の企業改革の一つとして『物流からロジスティクスへ』といわれますが、

 瑞賢が行った海運改革は『ロジスティクス改革』そのものだと思います。

  
 400年前にこれだけの事業センスをもった経営者がいたということに、本当に驚かされます。


  もし、今の時代に生まれていたらどんな企業人になっていたのか・・・・・・・





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by sakenihon | 2009-02-05 02:41 | 日本の歴史  

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