河村瑞賢 奥羽海運改革 その三
寛文十年(1670年)一月末に幕府勘定方からの依頼を受けて以来、河村瑞賢は本業の
土木・材木業は部下に任せ、荒浜から江戸への廻船の準備の没頭したようです。
そりゃそうですね。 明歴の大火以降、いくら財をなしたといっても幕府直々のオファーを失敗
するわけにはいきません。
寛文十一年(1671年)春にはすべての段取り準備を整え、尾張・伊勢付近からの弁財船
十数隻を江戸に呼び集めていました。
ほぼ一年で準備を整えたことになります。仕事の速さに驚きます。
集めた船に船団を組ませて荒浜に向かわせ、自らは陸路で荒浜を目指したのは3月初旬。
『なんで船に乗って行かなかった?』という疑問が浮かびますが、答えは簡単。
歩いた方が早かったのです。
江戸から約400kmほどの道のり、徒歩で2週間もあれば十分な距離です。
立ち務所(検査所)を置いた那珂港、平潟などへ港を確認のために立ち寄り、阿武隈川の様子
なども確認しながら荒浜に到着したのは3月末頃だったそうです。
それに対して瑞賢より先に江戸を出た船団が荒浜に到着したのは5月中旬だったそうですので
50日ほどかかったことになります。
伊勢・尾張から頑丈な船を使ったといえ、所詮は風任せの航海です。
寄港地で何日も何週間も風待ちをしながらですので、これでも順調な航海だったようです。
荒浜には以前から廻船を取り仕切っていた、武者惣右衛門(むしゃそうえもん)という商人が
いたので、瑞賢は惣右衛門の協力も仰ぎながら万事抜かりなく事を進めていったようです。
到着した船に御城米を積みこんで、第一船が再び江戸へ発ったのが5月末です。
これを見届け瑞賢も再び徒歩で江戸へ先回りし、6月中旬には江戸へ戻っていました。
そして、荒浜を発った最初の船が江戸へ戻ったのは7月10日頃、40~50日の航海です。
そのほかの船も一隻も難破することなく、8月までには江戸へ戻ってきておりました。
3月末に江戸を出て、荒浜で御城米を積みこみ、再び江戸へ戻ってきたのが7月中旬ですので
3か月半ほどで奥羽の米を江戸へ廻船できたことになります。
現在のトラック輸送であれば2日で行って帰ってこれる距離ですが、当時では画期的に早い
輸送だったのです。
さらに十隻以上の船がすべて無事に帰ってこれたことは凄いことだったのです。
それまでは秋に収穫したお米が次の年の収穫前に江戸に到着したことはなかったようです。
つまり、それまでは到着した時点ですでに『古米』となっていたわけです。
現在と同じく『古米』は『新米』より価格は安くなります。
瑞賢が運ばせた米は『新米』として、従来より高く取引され、依頼した幕府はもちろん
東北諸藩にとって大きな経済的メリットがある成功だったのです。
このことについて、塩竃市ホームページの中の「瑞賢の道」というページに以下の
様な記載があります。
瑞賢の改革後の1680年代から仙台藩が江戸へ送る米の量が急増し、
『藩財政収入の40パーセント前後がこの廻米による収益でまかなわれていたようで、重要な財源
であったものと考えられる。』
しかし、幕府がこの成功の効果の大きさを見て、翌寛文十二年(1672年)に瑞賢へ依頼した
事業こそ、河村瑞賢が残した最大の功績と評価される『西廻り海運改革』の事業です。
つまり、出羽国(山形)のお米を日本海を通って江戸まで運ぶという事業です。
東廻りでのノウハウがあるとはいえ、やっと一仕事終えたとたんに今度は日本海からずーっと
西への旅を強要される依頼です。
私なら『御勘弁ください~~お代官様~~』と土下座すると思いますよ。
人生五十年の時代、瑞賢はすでに五十五歳。
しかし、瑞賢の人生の中ではまだやっと折り返し地点程度。
これから益々パワフルに全国を飛び回ることになるのです。
この人、いったいどこまでやるの・・・・・???
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by sakenihon | 2009-02-08 22:22 | 日本の歴史