津軽じょっぱり 酒蔵巡り 《カネタ玉田酒造 玉田陽造物語①》
前回紹介した青森県弘前市の『カネタ玉田酒造』の「蔵元」兼「社長」兼「杜氏」、
玉田陽造氏について、のんべえが氏から聴いたお話を基に物語風にまとめました。
フィクション(推測)部分が含まれています。
昭和の日本酒の歴史を絡めた”お話”として読んで頂ければ幸いです。
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玉田酒造の創業は1685年(貞享2年)。
初代の玉田善兵衛は津軽藩藩士だったが、どうゆうわけか4代藩主信政公からの命によって、
藩の御用酒屋として酒造業を始めることになった。
なんと武士から商人への転職である。
江戸時代は封建社会、『士農工商』の階級社会とはいえ、柔軟性も兼ね備えていたことが伺える。
玉田陽造氏は1940年カネタ玉田酒造の9代目として生まれる。
陽造氏は蔵元の跡取りとして東京農業大学で醸造学は学んだものの、あくまで酒造りは
杜氏の仕事、蔵元は経営者であった。
1979年、陽造氏が39歳の時に父・秀造さんが他界し家業を継ぐこととなった。
事業を継いだころ、日本は高度成長の真っ盛り。
それに伴って人々の生活は洋風化が進みウイスキーの全盛時代。
そのために日本酒は急激な需要減少が始まって、長い冬の時代が到来していた。
第二次世界大戦による米不足から酒米が蔵ごとの配分制となったことがきっかけで、
玉田酒造を始め県下の多くの酒蔵は、県内の大手蔵への桶売り商売が主体となっていた。
桶売りは酒税も関係なし、造れば売れる、楽な商売だった。
ところがその制度が1968年(昭和43年)に撤廃されると、大手蔵は自前でいくらでも酒を
造れるようになり、桶売り桶買いの取引の必要はなくなった。
それに頼っていた多くの酒蔵がバタバタと廃業していった。
これは青森に限ったことではない。日本全国に2万軒近くあった酒蔵が現在の1800軒に
なった一つの要因である。
大手の酒蔵は中小の蔵から買い集めた原酒をブレンドし、醸造用アルコールを足し、水で
アルコールを15度未満に調整した。15度を超えると酒税の税率が上がるためである。
アルコール添加と加水で薄っぺらになった味を、糖分(糖蜜)で甘さ、調味料で旨み、
酸味料で酸味を作り出し、最初に買った原酒の3倍の量に膨らませて販売した。
これがいわゆる『三倍醸造酒』=『三増酒』である。
どんどん造ってどんどん飲ませれば酒税も増える。国家も『三増酒』を影で奨励していた。
こんな、旨いはずがない、混ぜものばかりで二日酔いする日本酒が横行していた時代。
オシャレで美味しいウイスキーやワインを知った消費者からソッポを向かれるのは当然であった。
陽造氏が家業を継いだ時、日本中の酒蔵はそういう状況に置かれていた。
しかし、玉田酒造は300年続く御用酒屋。 簡単に看板を下ろすわけにはいかない。
何としてでも事業を継承しなければならなかった。
つづく、
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by sakenihon | 2009-02-27 14:07 | 酒蔵めぐり