津軽じょっぱり 酒蔵巡り 《カネタ玉田酒造 玉田陽造物語②》
陽造氏が何としても家業を継承しなくてはならなかった理由はもうひとつあった。
実は、陽造氏の生家は玉田家の分家であった。
大正時代、陽造氏の祖父は分家として同じ弘前市内に『カネタ』の屋号で創業していた。
ところが、昭和36年になって本家が廃業してしまった。
そこで陽造氏の父、秀造氏が本家再興のために蔵を引き継ぐことになったのだった。
その際、分家として創業した屋号『カネタ』を残し『カネタ玉田酒造』としたのは先代の意地を感じる。
看板を下ろすことは、分家として本家を再興した先代の意思を裏切ることになる。
そう易々と廃業など考えられなかった。
家業を継いで一番困ったのは、『どんな酒をつくったらいいのかわからない』ということであった。
桶売りが続いたため、自分の蔵の味を失っていたということも問題だった。
しかしもっと根の深い問題があった。
桶売りが始まる前の時代、津軽地方で造られた酒はなぜかほとんど北海道へ送られていた。
なぜそんなことをしたのか、ご先祖様は何を考えていたのかは不明だが、そっちのほうが高く売れたのかもしれない?
とにかくその影響で津軽の人々は地元の酒ではなく、関西(灘)の大手蔵の酒を飲んでいた歴史があるのだ。
津軽の酒の特徴は?と問われれば、『灘の酒』と答えなくてはならなくなる。
つまり目指すべき津軽の『酒の味の方向性』というものがなくなっていたのだった。
まったく困った状況だが、とりあえずは杜氏さんというプロに任せておけばそれなりの酒はできる。
なんとか看板は下ろさずに頑張ってこれていた。
ところが、事業継承後ちょうど12年目、陽造氏51歳の時に大事件が起こる。
1991年(平成3年)の秋、日本海を通過して青森を直撃した台風19号である。
収穫直前のりんごが台風によってほとんど落下してしまい、リンゴ農家は大変な被害を受けた。
全国的にも報道されたのでご記憶の方も多いと思う。
実は当時の玉田酒造の蔵人はほとんどがリンゴ農家の人たちだった。
ところが、台風でその本業が壊滅的な打撃を受け、ほとんどの人が出稼ぎへ出てしまったのだ。
リンゴの収穫を終えると酒造りに来ていた蔵人が、突然来なくなってしまったのだ。
玉田酒造は台風によって突然に造り手を失ったのだった。
(蔵元を裏切った負い目のせいか、復興後も彼らが蔵へ戻ることはなかった。)
玉田陽造氏は自分で酒造りをするしかなかった。
『51歳の杜氏見習い』の誕生である。
いくら学生時代に醸造の勉強はしたといっても、すでに30年近く経っている。
いくらなんでも無茶である。 が、やるしかなかった。
これが玉田陽造氏のじょっぱり精神であったのだ。
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by sakenihon | 2009-02-28 01:28 | 酒蔵めぐり