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河村瑞賢 西廻り航路開拓 その三


1672年に酒田(山形県)から江戸への米の廻漕を命じられた瑞賢でしたが、

まずは概略のルート設定を考えなければなりません。

酒田から江戸であれば、いったん北上して津軽海峡を廻って東廻りで南下するのが早道。

しかし、以下の理由でそれは選択されませんでした。

① 津軽海峡の急流の危険性。

② 太平洋岸に良港が少ない。

③ 太平洋岸の諸国より日本海側のほうが交易物資が豊富。

④ すでに日本海ルートの蝦夷~敦賀間には航路が存在していた。

③の点では、加賀藩をはじめとした日本海側各藩の米の効率輸送需要があります。
昨日述べたとおり、東北の各藩は余剰の米を抱えており、これを換金するために効率いい輸送が望まれたのです。
実は、加賀藩は河村瑞賢よりも30年も前から下関廻りでの輸送に挑戦していました。
しかし、うまくいってなかったため、従来の敦賀からの陸路ルートが主流だったようです。
つまり日本海廻りルートには膨大な潜在的需要があったのです。

④については私の独自の考えですが、青森の十三湖を本拠とした豪族「安東氏」の存在が浮かびます。
安東氏は安東水軍とも呼ばれる強力な航海術を有した集団で、蝦夷のアイヌとの交易窓口であっただけでなく、中国大陸との交易をおこなっていたそうです。
当然ながら秋田・新潟などとの交易もあったはずで、この海域の航路開発や港湾のインフラ整備にも深く関与していたのではないかと、夢想しております。

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またまた、脱線してしまいました。

瑞賢は下関廻りの航路を想定し、使用人を瀬戸内海の備前・讃岐などの諸国に遣わしました。

使用人たちは沿海の住民から、航海に関する利害関係・航路の地理・港湾の状況などを詳細にヒアリングし、逐一瑞賢に報告しました。

同時に出発地となる酒田へも、東廻りの時に荒浜に同行した番頭を派遣します。

東廻りの時には、下調べも瑞賢自らが動きましたが、それに同行した使用人たちはその経験から、何をどのように調べたらいいのかを会得していたのだと思います。

瑞賢は人の使い方も長けていたのでしょう。 部下との信頼関係もできていたと思います。

そうでなければ、これほど大きな仕事を短期間に成し遂げられなかったはずです。

そうして、使用人たちから集まった報告をまとめて、”企画書”を幕府に提出したのです。

その要点は以下のようなものでした。

① 使用する船を選定。

② 最上川上流の天領から河口の酒田への米の運び方のルール作り。

③ 酒田での米の保管方法の見直し。

④ 酒田での船積み費用の負担者の変更。

⑤ お城米船であることがわかる幟(ノボリ)を立てさせる。

⑥ 途中寄港する諸港での入港税の免除。

⑦ 寄港地の特定と立務所(海の関所)の設置。

⑧ 関門海峡の水先案内船の整備

⑨ 航海の時期を気候が安定した時期の限る。

⑩ 以上の提案の是非を自ら確認するために、全行程を自ら訪れてチェックする。

一言でいえば、『安全航行の仕組みを全国レベルで取り決めましょう』という内容です。

詳細は次回へ。

またまた、退屈なお話のお付き合い下さってありがとうございました~~。



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by sakenihon | 2009-08-19 00:35 | 日本の歴史  

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