久世酒造店 七代目から聴いたこと
ことも再訪させていただいた大きな理由です。
この日は現蔵元(八代目)は不在で、七代目が私の相手をしていただきました。
こちらが、七代目様。
あの有名旅館加賀屋さんへの配達は今でも七代目のお仕事。 お元気です。
久世酒造店さんの包装紙。
『江戸寛政年間酒造の図』となってますが、昭和の初期までの酒造は基本的にこのスタイル。
七代目自身が実際に見て育った風景なので、大変精巧に書かれてます。
是非、クリックして拡大してみてくださいね。
次期蔵元九代目に酒蔵の中も見せていただきましたら、このようなものが目に留まりました。
手書きの温かさが感じられます。 このタンク番号は計画表上重要なもの。
中に『蔵人宿舎』という部屋があります。
こちらでは現在でも杜氏さんと二人の蔵人が能登からやってきて、この部屋に泊りこんで
蔵元家族とともに酒造りに取り組みます。
今年も12月になるとやってきて酒造りが始まりです。 もうすぐです。
先代杜氏は現在の杜氏さんの叔父さん。 現杜氏の息子さんも蔵人として参加。
杜氏さんも家族ぐるみで代々、久世酒造さんの酒造りをしています。
七代目は同志社大学卒業。 その卒業が終戦と重なります。
終戦直後はGHQの指示で全国のほとんどの酒蔵が休造せざるを得なかった時代。
久世酒造も昭和27年頃までは本格的な酒造りはできなかったそうです。
その時期、東京北区滝野川の大蔵省醸造試験場に席を置かれていたそうです。
恩師は鈴木明治氏。 後の東京農業大学醸造学科創設期の主要教授の一人。
つまり、この七代目は醸造界のエリート。 ただ者ではないのです。
大学時代からずっと福島の大七さんの先代と一緒に学ばれたとか。
お話をきいておりましたら、お酒造りは錬金術のようだなと思いました。
ほんとうにいろんなことを試されたようですが、まだまだ未練ありげ。
「ジアスターゼでも酒が造れると思うんだよ・・・・」と独り言のようなポツリ。
???? のんべえがついて行ける領域を完全に超えてます。
この錬金術がマイナスに働いたのが三倍醸造酒。
戦後「アルコールを8割入れて酒を造れと云われてね・・・困ったよなあ。」とまたポツリ。
でも、米の不足が招いた三倍増醸酒の時代が一番儲かったとは皮肉な話。
その頃の金沢花街での芸者遊びのお話も赤裸々に聴きました。
のんべえオヤジも顔が赤らむ内容。とてもここでは書けません。
そんなことやっても潰れなかったんですかあ?と目が点。 ホントに儲かったんだなあ。
この時期、全国の酒屋が浮かれてしまったんですよね。
その後のしっぺ返しは、あまりにも大きかった・・・・・・・・・・・・・というわけですね。
時代の生き証人のお話は、何を聴いても面白いものでした。
お土産をいただきました。
お酒を搾る時に使う袋です。
昔使っていた麻でできたもので、防腐のために柿の渋が塗ってあります。
手触りは厚手のジーパンのようです。 これはのんべえの宝物になりますね。
修理しながら大切に使われていたことが見てわかりますね。
搾っている最中に破れてしまうと、その穴に杉の枝葉を突っ込んで応急処置したそうです。
その杉の枝葉の余りを使って蔵人が造ったのが”杉玉”の発祥だと聴きました。
現在の袋は化学繊維でできていますので、大変丈夫で衛生的。 手入れもずっと楽です。
この袋、現代のものよりずっと細い形状です。
「この袋にモロミをこぼさないように入れるのに使うのがこれだよ。」
と教えていただいたのが”キツネ”と呼ばれるこの道具
お米を蒸す甑(こしき)の一番下の蒸気の出口において蒸気を四方に分散する道具。
”ネコ”と呼ばれています。底の面に蒸気を逃がす溝が掘ってあります。
とてもとても全ては書ききれませんので、これくらいで久世酒造さんのレポートはお終いです。
やはり長文になってしまいました。 ごめんなさい。
お読みいただきありがとうございました。
久世酒造店の皆さま、長時間お邪魔してしまいました。
大変有意義で楽しい時間を過ごせました。
ありがとうございます。
益々のご健勝と御繁栄をお祈りいたします。
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by sakenihon | 2009-11-17 01:19 | 酒蔵めぐり