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2009年 01月 21日 ( 2 )

 

河村瑞賢 江戸の数学書『塵劫記』

二十代半ばで普請方の役人に認められ、土木・建設現場で人夫頭として定職についた

瑞賢でしたが、後には米の廻船はじめいろいろな土木プロジェクトを幕府から依頼される

までになります。

そこまでの成功を収めるための基礎になったのが、工事現場で身につけた土木工事のやり方、

材木の目利き、人夫の使い方などの経験だったことは間違いありません。

しかし、それに加えて『塵劫記(じんこうき』という数学の本を熟読して習得していたのではないか

と長内国俊氏は推測しています。


『塵劫記』は吉田光由が1627年(寛永4年)に執筆した数学の問題集で、掛け算九九や面積・体積

の求め方など基礎的な問題から、ピタゴラスの定理なども記述されており、生活の中で活用できる

具体的な問題として出題されていて、土木や建設にも大いに活用できる内容だったようです。

江戸の町ではその問題に挑戦することが庶民の中でも一つの流行となり、ミリオンセラー・

ロングセラーとなっており、機知に長けた瑞賢が読んでいたのは間違いないとの推測です。

瑞賢はこの知識を活用して資材や人夫を効率的に使い、スピーディーで低コストな工事を行って

いたことから、役人からも認められていったのだろうと思われます。

その実例もこれから順次ご紹介したいと思います。


『塵劫記』は難易度を増しながら、明治時代までに数百種類も出版され、算術の発展に大きく

寄与しました。

現代の中高生では手に負えないようなレベルの問題もあったそうで、江戸時代の人々の

基礎学力の高さがうかがわれます。 

大阪の橋本知事が聞いたらなんと言うんでしょうね!?






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by sakenihon | 2009-01-21 23:58 | 日本の歴史  

河村瑞賢 エピソード その一

昨日の続きです。

13才で江戸に出てきた瑞賢でしたが、元服後は十右衛門と名乗っていました。

江戸では荷車引き(車力しゃりき)を細々とやり、苗字を車力、車力十右衛門と名乗っていた

ようです。

なかなか思ったようにはうだつが上がらず、思い悩んでいた寛永18年(1641年)に寛永の大火

が起き、ようやく発展し始めた江戸の街の多くが焼失してしまいました。

それで十右衛門は焼け野原になった江戸にいてもしかたがないと、家財をすべて売って上方へ

旅立つことにしました。十右衛門が24歳になったころです。

家康の江戸入府が1590年といいますから、1641年時点ではまだまだ上方(大坂京都)

の方が都会だったのでしょうか。

それで江戸に見切りをつけて上方へ上ろうとしたのでしょう。

ところがその途中の小田原の宿で一人の翁と出会い人生の転機を迎えます。

十右衛門が身の上を話すと、その翁は十右衛門が大変いい骨相をしているので、かならず

大成するというのです。

そしてこれからは江戸が上方よりもきっと栄えるので、もういちど江戸に戻るよう言われます。

さらに名前も『瑞賢』と変えるように勧められます。

それで十右衛門は素直にもその翁の言う通り、名前も車力瑞賢と変え、江戸の戻ることにして

しまいます。

そして品川まで戻ってくるのですが、季節がちょうど盂蘭盆(うらぼん)の後で精霊船に供えられた

野菜がうち捨てられ崖下に漂流しているのを見つけました。

そこで、乞食に僅かな銭を与えてこれを集め古桶を買って塩漬けにし、昼時の工事現場の

人夫に売って利益を上げたそうです。 (これがエピソードその一です。)

その金を元手にしばらくは漬物を売り歩いていましたが、その間にの普請方の役人と知り合い、

工事現場で働くことになります。

瑞賢はここですぐに頭角を現します。

工事現場に分業制を導入したり、人夫の働き方を数値的・合理的に差配する才覚を現わし

人夫頭になるまで時間はかからなかったようです。

瑞賢はこの時期に、この後の本業となる土木の知識・経験を得ることになります。


《参考文献》
 日本歴史学会編集 古田良一著 『河村瑞賢』 (吉川弘文館)
 長内国俊著  『河村瑞賢 みちのく廻船改革』 (文芸社)





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by sakenihon | 2009-01-21 01:28 | 日本の歴史