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カテゴリ:日本の歴史( 40 )

 

河村瑞賢 奥羽海運改革 その三

やっと奥羽海運改革の最終章となります。

寛文十年(1670年)一月末に幕府勘定方からの依頼を受けて以来、河村瑞賢は本業の

土木・材木業は部下に任せ、荒浜から江戸への廻船の準備の没頭したようです。

そりゃそうですね。 明歴の大火以降、いくら財をなしたといっても幕府直々のオファーを失敗

するわけにはいきません。

寛文十一年(1671年)春にはすべての段取り準備を整え、尾張・伊勢付近からの弁財船

十数隻を江戸に呼び集めていました。

ほぼ一年で準備を整えたことになります。仕事の速さに驚きます。


集めた船に船団を組ませて荒浜に向かわせ、自らは陸路で荒浜を目指したのは3月初旬。

『なんで船に乗って行かなかった?』という疑問が浮かびますが、答えは簡単。

歩いた方が早かったのです。

江戸から約400kmほどの道のり、徒歩で2週間もあれば十分な距離です。

立ち務所(検査所)を置いた那珂港、平潟などへ港を確認のために立ち寄り、阿武隈川の様子

なども確認しながら荒浜に到着したのは3月末頃だったそうです。



それに対して瑞賢より先に江戸を出た船団が荒浜に到着したのは5月中旬だったそうですので

50日ほどかかったことになります。

伊勢・尾張から頑丈な船を使ったといえ、所詮は風任せの航海です。

寄港地で何日も何週間も風待ちをしながらですので、これでも順調な航海だったようです。


荒浜には以前から廻船を取り仕切っていた、武者惣右衛門(むしゃそうえもん)という商人が

いたので、瑞賢は惣右衛門の協力も仰ぎながら万事抜かりなく事を進めていったようです。

到着した船に御城米を積みこんで、第一船が再び江戸へ発ったのが5月末です。

これを見届け瑞賢も再び徒歩で江戸へ先回りし、6月中旬には江戸へ戻っていました。

そして、荒浜を発った最初の船が江戸へ戻ったのは7月10日頃、40~50日の航海です。

そのほかの船も一隻も難破することなく、8月までには江戸へ戻ってきておりました。


3月末に江戸を出て、荒浜で御城米を積みこみ、再び江戸へ戻ってきたのが7月中旬ですので

3か月半ほどで奥羽の米を江戸へ廻船できたことになります。

現在のトラック輸送であれば2日で行って帰ってこれる距離ですが、当時では画期的に早い

輸送だったのです。

さらに十隻以上の船がすべて無事に帰ってこれたことは凄いことだったのです。


それまでは秋に収穫したお米が次の年の収穫前に江戸に到着したことはなかったようです。

つまり、それまでは到着した時点ですでに『古米』となっていたわけです。

現在と同じく『古米』『新米』より価格は安くなります。

瑞賢が運ばせた米は『新米』として、従来より高く取引され、依頼した幕府はもちろん

東北諸藩にとって大きな経済的メリットがある成功だったのです。

このことについて、塩竃市ホームページの中の「瑞賢の道」というページに以下の

様な記載があります。

瑞賢の改革後の1680年代から仙台藩が江戸へ送る米の量が急増し、

『藩財政収入の40パーセント前後がこの廻米による収益でまかなわれていたようで、重要な財源

であったものと考えられる。』


しかし、幕府がこの成功の効果の大きさを見て、翌寛文十二年(1672年)に瑞賢へ依頼した

事業こそ、河村瑞賢が残した最大の功績と評価される『西廻り海運改革』の事業です。

つまり、出羽国(山形)のお米を日本海を通って江戸まで運ぶという事業です。


東廻りでのノウハウがあるとはいえ、やっと一仕事終えたとたんに今度は日本海からずーっと

西への旅を強要される依頼です。

私なら『御勘弁ください~~お代官様~~』と土下座すると思いますよ。

人生五十年の時代、瑞賢はすでに五十五歳。

しかし、瑞賢の人生の中ではまだやっと折り返し地点程度。

これから益々パワフルに全国を飛び回ることになるのです。


この人、いったいどこまでやるの・・・・・???




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by sakenihon | 2009-02-08 22:22 | 日本の歴史  

河村瑞賢 奥羽海運改革 ちょっと余談

昨夜、日本テレビの金曜ロードショーで、山田洋次監督の『隠し剣 鬼の爪』という邦画を

やっておりました。

普段はテレビで映画はあまり見ないのですが、昨夜は風邪のために部屋に隔離されており、

一人で横になってのんびりと鑑賞しておりました。

山田監督プラス永瀬正敏、松たか子などの俳優陣の演技もかみ合って楽しめる映画でした。

江戸末期の東北(山形か福島会津あたり)の小藩が舞台の映画なのですが、その中で主演の

永瀬正敏さんの妹役を演じた田畑智子さんの(よく聞き取れないほど)早口の東北弁に感心し、

同時に河村瑞賢の本を読んでいた時に感じたことを思い出しました。


河村瑞賢が仙台市の南の荒浜という港から江戸への米の輸送に尾張や紀伊の船を使ったこと、

さらに船頭や船乗りもその地方の熟練者を選んで使ったことは、先日書きました。

確かに船舶技術が優れていることがその理由なのですが、それだけでは納得ができません。

技術的な問題だけならば、船と船頭だけを尾張などから連れてくればいいはずです。

しかし、瑞賢は船員までもすべて連れてきているのです。

当然、荒浜から江戸までの地形や海流、気象条件などは東北地方の船乗りの方が詳しい

はずなのに、東北地方の船乗りを使わなかったのはなぜでしょう?


それは『言葉』の壁があったのではないかと思うのです。

(長内国俊著の小説『河村瑞賢』の中にも所々にそのような記述があります。)


当時は現在のような『標準語』などなく、各地それぞれで言葉は大きく違い、言葉が通じない

ことは珍しくなかったとおもいます。

ただし、当時(江戸初期)の文化の中心である上方や、信長・秀吉・家康の出身地の中部・東海

(紀伊・伊勢・尾張・三河)などからの人の流入は多く、意思の疎通に問題はなかったのでしょう。


それに比べて、東北は遥か昔の藤原氏によって平泉が栄えた歴史はあるものの、江戸初期に

おいてはその言葉はほとんど理解できない、という状態だったのではないでしょうか。

参勤交代がある上級武士ならばまだしも、その他の庶民は滅多に移動しないでしょう。

そのため瑞賢はあえて尾張や紀伊などの船乗りを使ったのではないかと思うのです。

(瑞賢自身が伊勢出身ということも無関係ではないでしょうが)


昨夜の江戸末期を描いた映画の中でさえも、江戸から西洋式鉄砲隊の教育に来た都会的な

武士と東北の古風なさむらいの言葉や考え方の違いが滑稽に描かれていました。



この文章を読んで、東北を田舎扱いしていると気分を害される方が居られるかもしれませんね。

しかし、昨夜の映画の田畑智子さんの方言(正しいものかどうかは別として)を聴いて、私は

美しく上品で優しい日本の言葉だと感じたのです。

実際はもっともっと分かりにくい言葉だったのでしょうが、当時の日本には各地にそのような

『言葉』があって、それぞれがそれを『方言』などとは思わずに、誇りを持って使う、大変美しい

『言葉』だったのではないかと思うのです。(現在の『標準語』などよりず~っと)


昔は日本各地に、それぞれの日本酒がそれぞれの杜氏の工夫と技術で醸されていたのと

同じで、言葉もそれぞれ誇りを持って美しく生きていたのではないでしょうか?

全国どこでも東京の方を向いた、同じ言葉、同じ生活、同じ味覚、同じお酒という傾向が強まる

現代の日本は便利で公平ではありますが、あまり面白くない世界ですね。

『狭い日本』といいますが、江戸時代には日本はもっと広かったんだなあと思いました。


そんなことを昨夜の映画を見て感じたという、極めて簡単なことをまたまた駄文で長々と

書いてしまいました。 申し訳けありません。


しかし何かにつけて最近想うのは、『現在は江戸時代より文化的に優れていていい時代

なんだ』とは一概には言えないなあ~~~
ってこと。

決して、現在のドツボの不況のための現実逃避的感慨ではないと思うのですが、

みなさま如何でしょうか?



『おめえ、単に山田洋次監督の世界にハマっただけやんけ!』というお叱り、あると思います。

『風邪の熱でうなされとるんかい!』 というお叱りもあるでしょう。

たぶんそうなんです。 うなされているんです。 きっと・・・・・病気です。

でも、せっかく書いたんでアップしますね。 ずうずうしく。





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by sakenihon | 2009-02-08 00:12 | 日本の歴史  

河村瑞賢 奥羽海運改革 その二

『奥羽海運改革 その一』の続きです。

寛文十年(1670年)、河村瑞賢は幕府勘定方の都築新左衛門から、奥羽(東北)地方の

天領の米を江戸へ運ぶ廻船事業を依頼されます。 瑞賢が53歳頃のことです。

具体的には阿武隈川の河口の『荒浜』から数万石の米を江戸へ、スピーディーに運ぶ方法の

開発です。

依頼を受けてすぐに瑞賢は、番頭をはじめ信頼できる部下を数人選び、江戸から荒浜までの

海岸線と沿岸の港の様子を調査するように命じ、図面も添えて報告書を作成させ、それを

もとに幕府と方策を建議しました。

その結果、瑞賢が出した方針は以下の通りです。

① 港湾整備

  途中の寄港地は常陸(現茨城県)の平潟・那珂港、銚子、安房(南房総)小湊として

  そこには立務所をおいて、船が決められた通りの運航を行っているかをチェックさせる

  とともに、難破などの際の対応策を取りきめました。
 
  当時の各寄港は極めて狭く小さなものであったため、湾口を広げるなどの整備もできる

  限りは行ったようです。


② 船の選択

  廻船に用いる船は、当時東北地方で使われていた『二形船(ふたなりぶね)』ではなく、

  より技術が発達した上方~伊勢・尾張~江戸の航路で使われていた『弁財船』という船を

  使うことにしました。

  『弁財船』は当時の船の中では最も堅牢な船な大型船(300~500石)でした。

  『二形船』の帆は小さな筵帆(むしろほ)でしたが、『弁財船』は刺帆(さしほ)と呼ばれる

  木綿の帆で、より早く走れる船です。
  
  『二形船』は櫓も使いますが、『弁財船』は帆だけで航行でき、より沖合を走ることが

  できます。

  『二形船』は陸地近くから離れずに航行するため座礁する危険性も高かったようです。


③ 安全な航路
  
  航路の難所は房総半島を廻るときと、その後海岸に沿って江戸に向かう箇所でした。

  房総半島の突端、野島崎・洲崎を廻る急な方向転換は、よほど都合よい風が吹かなければ

  帆船では困難でしたので、岬を廻ったところで陸地側に打ち付けられるような遭難が

  大変多かったようです。

  そのために、銚子までで海路をあきらめて、小型の船に乗せ換えながら利根川を遡って

  江戸へ至るという方法がとられていたのです。

  そこで、瑞賢は無理に風に逆らうことをせず、野島崎から風に乗って一旦は伊豆大島へ

  向かい、そこから伊豆下田や三浦半島を経由し、風向きが変わるのを待ちながら徐々に

  江戸へ向かうというルートを取らせることにしました。

  一見遠回りのように思われるのですが、利根川ルートよりは遥かに早く、難破のリスクも

  最小限にすることで、結果的には速く低リスク(=低コスト)での輸送ができると考えた

  のです。


④ 最高の技術とマンパワー

  船頭・水夫は当時技術が優れていた伊勢・尾張・紀伊から熟練したものを選び、その

  船員の妻子を保護して後顧の憂いをなくすように、幕府に約束させました。

  つまり、船員に生命保険を掛けてやったということですね。

  当時の幕府や商人は安く運ぶために目先のことしか考えず、船も水夫も悪く、一刻も

  早く運ぶために天候も顧みず、最短のルートを無理に航行した結果、多くの船と船員が

  船荷とともに海に沈んで、元も子もないという状態でした。

  瑞賢は全く反対の方法(堅牢な船・熟練の水夫・安全なルート)で改革を行ったということです。


⑤ 幕府のバックアップ

  船にはお城米船(幕府御用船)の印の幟(のぼり)を立てさせ、沿岸諸藩・代官に命じて

  その保護に当たらせました。


⑥ 無理な航行の禁止

  船足を定め、沈没防止のため積み過ぎをしないように喫水線を決め、違反がないように

  立務所で検査をさせました。


⑦ 船員のモチベーションアップ

  船荷の御城米の量は厳重に管理し、船員の食糧米は別に寄港地で買って積み込むが、

  その食糧米の量は常に多めに積ませていました。

  しかし、万一遭難しそうな場合は、その食糧米から先に海中に投げ込むように命じました。

  また、航海中の博打を禁じるなど船員には厳しい規律を作ったが、無事に江戸に着いた

  場合は余った食糧米は船員に与え、売って儲かるようにしたそうです。

  『アメとムチ』の管理方法ということですが、船員たちはこれを喜んで受け入れたと

  いいます。

  
  瑞賢が提案した、以上の改革案は幕府がすべて受け入れ、その後の西廻り改革でも

  取り入れらます。

  そしてここでの取り決めが、瑞賢の死後も幕府が定めたルールとして遵守され、

  その後長く明治時代まで続く和船による国内海運の基礎となりました。


  
  おわかりいただけたでしょうか?

  河村瑞賢の改革はすべてといってもいいほど、『全体最適』の考え方が根底にあります。

  目先のコストではなくて、全体を鳥瞰して何を変えるべきか? 問題のボトルネックは

  どこにあるのか?
を的確に把握してから改革を行うのです。

  事前に問題点を徹底的にあぶりだして、その問題が発生しないような仕組み造りを行う

  というやり方は、現代のクオリティーコントロール(QC)の考え方と同じです。

  この21世紀の企業改革の一つとして『物流からロジスティクスへ』といわれますが、

 瑞賢が行った海運改革は『ロジスティクス改革』そのものだと思います。

  
 400年前にこれだけの事業センスをもった経営者がいたということに、本当に驚かされます。


  もし、今の時代に生まれていたらどんな企業人になっていたのか・・・・・・・





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by sakenihon | 2009-02-05 02:41 | 日本の歴史  

河村瑞賢 奥羽海運改革 その一

瑞賢が幕府からの奥羽海運改革事業の要請を受けるに至った経緯を先に記載しました。

いよいよ、これからがどうやってその事業を成し遂げたかに入ってまいります。

この事業は瑞賢が成し遂げた事業の中でも最も重要なものであり、続く西廻りの航路開設

のノウハウもすべてここで蓄積されたのでした。


そもそも、それまでの奥羽(東北)地方から江戸への物資輸送がどのようになされていたかを

簡単に説明いたします。

江戸以前は全国から京都へ物資が集まる仕組みでしたので、日本海側の海運が大変発達して

いました。 室町時代にはすでに蝦夷(北海道)から津軽~酒田(山形)~富山~能登を経由し

敦賀・小浜(福井)へ至る海上ルートができていました。

敦賀で下ろされた荷物は陸路で琵琶湖北岸まで運ばれ、さらに船で琵琶湖を縦断し河を通って

宇治~京都~そして大坂の淀川河口へ至るのです。

大坂で一度蓄積されたのち、『菱垣廻船』とよばれる積み合わせ船で伊勢~尾張などを経由

しながら江戸まで運ばれるという大変遠大なルートで運ばれていました。

酒田から大坂経由の江戸まで運ぶには最低2年はかかっていたと思われます。

さらにこのルートで運ばれたのは昆布や繊維類などの保存がきく物だけで、米が運ばれる

ことはありませんでした。


もう一つのルートとしては仙台付近の諸藩が藩米を江戸に送っていたルートで、仙台から30km

ほど南の阿武隈川の河口の『荒浜』という港から、太平洋を南下して江戸へ向かう

方法です。

しかし、こちらは海運の歴史が浅く航海の技術も未熟であったため、江戸へ海運だけで輸送

することはできませんでした。

途中の『なかみなと』(北茨城 那珂川の河口)に入り、そこから河川用の小型船に積み替えて

涸沼を通り、一度陸路を通って霞ヶ浦~利根川を経由して江戸へ至る、という方法がとられて

いました。

当然、何度も何度の積み替えられますので、米俵の中の米は隙間からこぼれだし、輸送中に

かなりの量が失われるといった状態でした。

さらに、『なかみなと』は300石程度の船でも入れないほどの小さな港であり、輸送量は非常に

限られてしまいました。

この方法だと秋に収穫した米を翌年の春に荒浜から積み出し、江戸へ到着するのはそれから

一年以上後という状態でした。


または、もう少し太平洋を南下して千葉県の銚子まで来て、利根川を遡って江戸へ至るという

方法もありました。

銚子であれば300石程度の船の入港も可能でしたし、なかみなと経由よりも早く運べましが、

途中の鹿島灘や九十九里には避難できる港がほとんどないため、当時の貧弱な船ではチョット

した天候の変化で難破してしまうという致命的な問題がありました。

地図検索を使って、宮城県付近から東京までの太平洋岸の地形を良く見てみますと、確かに

のっぺりとした海岸が多いことがわかります。


当時の船が海岸線から大きくは離れず、陸地の地形の特徴を見ながら航行しますので、航行

できるのは昼間だけで、風待ち・潮待ちを繰り返しながら少しづつ進むという航海でしたので、

旅人の歩行の方が遥かに早いといった状態でした。

瑞賢がこの海運改革を引き受けた時には、このような実情は全く把握できていませんでした。

そこで、瑞賢は依頼を受けてまもなく、番頭をはじめとする数人の部下に、荒浜までの海岸線を

歩いて、地形の様子を確認させるとともに情報の収集を行ってくるよう指示します。

                         明日へつづきます・・・・




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by sakenihon | 2009-02-02 02:03 | 日本の歴史  

江戸時代って時代劇とは違っていたような・・・

昨日の文章を書く途中で、『永井俊哉ドットコム』というサイトの中に「江戸時代の人口調整方法」

というレポートを見つけました。

なかなか面白い分析だと思います。

江戸時代の庶民は勝手な移動が厳しく規制されていたというイメージを持っていましたが、

江戸は地方からの出稼ぎで支えられていた町であり、人の移動は活発だったようですね。

河村瑞賢も三井高利(三越創業者)も地方からの出稼者ですし、長子以外の移動規制は

緩かったのかもしれませんね。

地方からの転入者で活性化されている現代の東京とまったく同じですね。


口減らしも兼ねて地方から江戸へだされる次男、三男は薄給で休みなくこき使われ、大火や

疫病で大量に死亡者が出ることも多く、都市部での出生率は低く、平均寿命も地方よりも短か

かったということですが、現在の東京のサラリーマンと同じじゃないか!と感じましたよ。

(私も地方出身の東京のサラリーマンを永くやっておりましたので、胸に響くものがありました。)


それに対して、田舎に残って農業を担っていた長子の家族は『お伊勢参り』や『善光寺参り』

には3~4ヵ月も掛けてのんびりと旅を楽しむこともあったようですし、温泉での湯治なども

一か月単位で行われていたようです。

要は農民はしっかり年貢を納めることや、時々土木工事へかりだされることは強制されて

いたものの、それ以外は結構自由があったようですね。

大飢饉や特に貧しい地域、部落差別などはあったとしても、全体としての農民の生活は

それほど悲惨なものではなかったと、江戸時代の印象が変わりつつあります。


武士が浪人になり農民となってゆくこともあれば、河村瑞賢のように農民の出ながら

最後は御家人(旗本)になった者もいるのですから、士農工商の身分制度も決して固定化

したものではなかったのでしょう。 

そのアバウトさに日本らしさを感じます。


時代劇では全国どの町にも悪代官がいて、庶民は町や村に縛られ苦しめられるばかりという

決まったパターンばかりですが、実際はかなり違っていたのではないでしょうかね。


確かに『文明』はこの100年でとてつもなく発展しましたが、『生活の基本』のようなものは

現代もあまり変わっていないのかもしれませんね。

『文化』はあまり進歩してないのかも・・・・



今日はいったい何を言っているのかわからない文章となってしまいました。

『文化とは?』なんて考えながら・・・・そろそろ一献といきますか・・・・・・(笑)





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by sakenihon | 2009-02-01 19:26 | 日本の歴史  

河村瑞賢 奥羽海運改革 その時代背景と経緯

前回、1657年の明歴の大火をきっかけに河村瑞賢(かわむら ずいけん)は大きな富を得る

ことになった経緯を書かせていただきました。

明歴の大火は、徳川家康が入府した1590年から約半世紀後に起こっています。

この半世紀で江戸は都市整備が進み、参勤交代が始まったことなども影響して、地方からの

人口流入が次第に多くなっておりました。

そのような状況で発生した明歴の大火は江戸を再開発を促進し、本所・深川などの開発が

急速に進むきっかけとなりました。

今の言葉を使えば、超大規模都市開発による公共事業需要が発生したということですね。

そのような状況で、土木事業に加えて材木商へも進出した瑞賢の商いは、さぞや好調だった

と思います。


街が大きくなるとますます人口の流入が進みます。

関東の周辺でも多くの稲作がおこなわれていましたが、しだいにそれだけでは不足し、物価高騰

が発生するに至ります。 

その反面、耕地が豊富な地方の諸藩(特に東北地方)は人口は少なく、米余りの状況と

なってゆきます。余った米を抱えた地方の諸藩は、それを江戸へ持って来れれば高く売れ、

金銀を手に入れることができますから、江戸へ向かう大量の物量を支える物流手段を築く

必要が増してくるわけです。


江戸初期においてはまだまだ京都を中心とした近畿圏の方が江戸よりも都会であり、

米を含めた全国の物産は京都へ、そして大阪へ集まるような体制になっていました。

大阪が『天下の台所』と言われるのもそのためです。

特にお米は各藩が家来に俸禄米として分配した以外の米を金銀に交換するため、大阪の

蔵に保管しておき、相場を見ながら現金化していたそうです。

現在の穀物相場取引と同じですね。



あくまで、近畿が『上方』でした。

『上方』から江戸へ送られる物資は下り荷、下り物でした。

集まった全国の物産の中から、いいものを選りすぐって江戸へ送っていましたので、

送られない物は大したものではない、つまり『下らないもの』であり、そこから現在の

『クダラナイ』という言葉が生まれたそうですね。

ただし、この時代はお酒はすでに灘から江戸へ運ばれていましたが、お米は大阪で止まって

しまい、江戸への移送はなかったようです。



さてさて、明歴の大火から13年後の寛文10年(1670年)、江戸の街は復興著しく大量の人口

流入による物価上昇、特に米価の高騰を起こしております。

それに苦慮した幕府勘定方(今の財務省?)では、対策として奥州の天領米を江戸へ緊急輸送

するべきと決まります。


奥州の天領とは、ちょうど今NHKの大河ドラマ『天地人』の舞台、山形県の米沢藩上杉家から

没収され天領となった土地だったのではないかと思います。

上杉景勝は会津を居城に120万石を持っていましたが、関ヶ原で豊臣方についたため米沢へ

移動させられて30万石となっており、その没収分の90万石が天領となったようです。

全国の天領の総量は300~400万石程度だったようですので、この90万石の天領は幕府に

とってもかなり大きなものだったのでしょう。


しかし、当時の東北から江戸への物資の輸送方法では、長い時には1年以上かかり、途中の

遭難事故も多い状況でした。

その輸送を短時間で行う必要があるが、既存の米問屋に頼んでいてはとても間に合わない

と考えた勘定方は、合議の結果数々の事業を成功させていた河村瑞賢へ依頼することに

なりました。

寛永寺の瓦修理や増上寺に鐘の修理など数々に功績は幕府上層部へも届いていたのでしょう。

瑞賢宅へ勘定方の都築新左衛門という役人が、わざわざ依頼に出向いたということです。


江戸初期において、武士である幕府の役人が商人宅へ出向くというようなことがあったんで

しょうかね。

学校で教わった『江戸時代=封建制・士農工商』というイメージとは乖離した話です。

最近、江戸時代の一般市民にの生活についていろいろ調べるにしたがって、江戸時代は

それほど窮屈な時代ではなかったのではないかと感じることが多いです。

また、幕府の役人が物価の高騰に対する対応まで考えていたということも意外でした。

現在の霞が関の高級官僚よりもしっかり働いていたんじゃない?と思ってしまいます。


瑞賢は幕府の依頼とはいえ、海運は全く専門外であり、最初は固辞したそうですが、

江戸の庶民の生活を安定させるという大きな意味を持つ事業であると説得されて、

結局引き受けることになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
稚拙で長々とした文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

複数の文献やネット上の情報を確認しながら記載しておりますが、明らかな間違いが

ございましたらご指摘ください。
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by sakenihon | 2009-01-31 23:59 | 日本の歴史  

河村瑞賢 明歴の大火

上野寛永寺から離れて、河村瑞賢へ戻りたいと思います。

河村瑞賢が豪商としての富を築くきっかけになったのが1657年に発生した『明歴の大火』です。

『明歴の大火』は『振りそで火事』とも呼ばれ、一人の娘の失恋が元となったという話があります

が、発展著しい江戸の街の再開発のために計画された「点け火=放火」という説もあります。

いずれにしても現在の中央区、千代田区のほぼ全域を焼きつくす大火で、死者は十万八千人

と言われています。

このときには家康入府前からあった江戸城も焼け落ちてしまいます。

瑞賢が40歳の頃の出来事です。

1641年の寛永の大火の時には江戸に見切りをつけて上方へ向かおうとした瑞賢でしたが、

明歴の大火での対応は全く違っていました。

すでに普請方に認められ土木工事の現場監督のようなことをしていた経験から、大火の後の

材木の不足を予知します。

当時、一般の民家のための材木は関東近郊の木を使っていましたが、大名の屋敷などに

使う上質な材木は紀州産や木曽産が使われていました。

そのようなことにも瑞賢はすでに精通していたと思われます。

大火を見るや、我が屋敷も危ないというときに有りったけの金銭を携えて、夜に日をついで尾州・木曽へ

向い、可能な限りの材木を買う契約をしたといいます。

後に他の材木商が訪れたときにはすべて瑞賢が買い占めていたということです。

大火によって多くの屋敷が焼失したと同時に、江戸に蓄えられていた建築用の材木も多くが

焼けてしまいましたので、瑞賢はこれによって莫大な富を築いたといわれています。

また、購入した大量の材木を江戸に運ぶ際には船を使ったと思われますので、その経験が

後の海運改革でも大変に役立ったのではないでしょうか。

このエピソードは紀伊国屋文左衛門のものとして語られることもあるようですが、明歴の大火の

年には紀伊国屋文左衛門はまだ生まれていません。


これだけの話を聞くと、瑞賢は強欲で他人の不幸を利用して富を築いたように思えます。

しかし、瑞賢の人柄を示す記載が、古田良一著の『河村瑞賢』に記されていますので

引用します。

『瑞賢はまた他人が金儲けをすると、自分が儲けたように喜んで、その人を招いて宴を張った。

ある人がそれを不思議に思って尋ねたら、いま幕府や大名が持っている金は皆埋もれた金だ。

これを市中にばらまけば、人夫にいたるまでその利択を蒙る。そうなれば金銀が天下を馳駆する

ことになり、喜ばしい限りである。自分だけの利潤を楽しむようなことはしない、と言った。』
(以上『』内、古田良一著『河村瑞賢』15ページより引用)

これが本当ならば、現在の総理大臣を任せてもいいほどの経済観念を持っていたことになります。

ただの機智に富んだ商人ではないですよね。

この辺が、のんべえが瑞賢に惚れる部分なんですねえ・・・・・・


このようにして財を築いた瑞賢ですが、この私財をも費やして国家のインフラ整備となる事業を

次々に成功させることになります。

その話はまた明日以降につれづれに記載してまいりたいとおもいます。




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by sakenihon | 2009-01-30 05:38 | 日本の歴史  

上野寛永寺 《清水観音堂と平盛久》

最初は富山の満寿泉さんのHPに記載されていた、『北前船』って何?からスタートし、

『河村瑞賢』へ、そしてそこから『上野寛永寺』にたどり着いて、寛永寺について二日がかりで

長々と記載してしまいました。

もう少し『河村瑞賢』についてのお話をしたいのですが、その前にもう一つだけ、大脱線を

させていただきます。


寛永寺について記載するにあたって、上野公園周辺を散策してきましたが、その折に西郷さん

の銅像の裏手に不忍池を見下ろすように建つ『清水観音堂』に立ち寄りました。
上野寛永寺 《清水観音堂と平盛久》_f0193752_21524100.jpg

 『清水観音堂』は数多く存在した寛永寺の建造物の中で、上野戦争にも第二次世界大戦にも

無傷で残った数少ない建物で、国の重要文化財に指定されています。

お堂に入って参拝した後で、堂の中を見回しましたら一枚の『額絵』に興味がわきました。

お堂に入ってすぐの賽銭箱の真上あたりに、御本尊の千手観音に向かうように掛けられた

2mx1.5mほどの大きな額絵です。 (堂内撮影禁止でしたので写真はありません。)

その額絵には、武士から今にも首をはねられる寸前の人物が描かれていました。

武士は大きな太刀を今にも振り下ろすといった姿勢で、絵全体は非常にオドロオドロしく、

お寺には似つかわしいものではありません。

興味を抑えきれず、お坊さんに聞いてみました。

お坊さんはチョット息を整えるような一瞬のあとで、ゆっくり丁寧に説明をしていただきました。


その絵に描かれた、今にも首をはねられそうな人物は『平盛久』(たいらのもりひさ)という平家の

武将だそうです。

盛久は日頃から京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたそうです。

その盛久が源氏に捕えられ鎌倉の由比ヶ浜で打ち首にされる寸前、なぜかその太刀

がポッキリと折れてしまって、処刑ができなかったというのです。

その報告を受けた源頼朝は盛久を放免します。

盛久は京都に戻り清水寺へ参拝すると、自分が奉納した千手観音像が打ち首の時刻に倒れ

破損していたことを知り、観音像が自分の身代わりとなったのではと、改めてその霊験を

思い知ったというお話があるそうです。

お堂に掛けられた額絵は、その処刑の様子が描かれており、よく見ると天からは雷が降り注ぎ

武士の持った太刀の先がないのがわかります。

(このお話はお能でも『盛久』という題目で知られているとのことです。)

その傷ついた千手観音像がその後、京都の清水寺から寛永寺清水観音堂へ移されて、

清水観音堂の御本尊(秘仏)となっているそうです。


お坊さんは以上の経緯を説明された後で、御自分の感想として以下のように語られました。

「この清水観音堂だけが、上野戦争の激戦でも大戦でも全く被災せず、建立当初のままで

残っているのは何か不思議な力を感じずにはいれないのです。もしかしたら千手観音様から

守られていたのでは?と、どうしても考えてしまいます。」

信仰心のない私でもこのお話を聞くと、何かそのような力ってあるんじゃないかと思います。

今日ここへ来て、このお話に接することができてよかったと感じました。

いままで、何とも感じなかった上野公園をすごい場所に思えてきた昨今です。

(以上のお話はこちらのHPにも記載がありました。⇒ 『寺旅』 )


清水観音堂の御本尊『秘仏千手観音』は2月6日に年一回の特別御開帳となります。
これも何かのご縁ですので、是非拝みに行こうと思っております。
上野寛永寺 《清水観音堂と平盛久》_f0193752_216155.jpg



ようやく、寛永寺から『河村瑞賢』へ戻れそうです。

しかし、基本的にはお酒のブログ。

そろそろ、それらしいことも書かなくっちゃと思ってはおりますが・・・・・・・





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by sakenihon | 2009-01-28 02:23 | 日本の歴史  

上野寛永寺 つづき

脱線が長すぎるとは思うのですが、昨日に続いて『上野寛永寺』についてです。


江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜は慶応3年(1867年)10月15日、京都にて大政奉還

を行います。

その後、慶喜公は江戸の戻り、翌慶応4年2月12日から4月11日(江戸城無血開城の日)まで

の間、自ら寛永寺で謹慎し江戸城無血開城を見届け、その日に生家の水戸へ向かったそうです。

現在でも寛永寺にはその謹慎時に使われた二間続きの部屋が『葵の間』として残されています。


慶喜公が水戸へ向かったわずか一か月後の慶応4年5月15日、彰義隊ら旧幕府軍は徳川家

菩提寺である寛永寺に集結し、薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍との間で戦いが起こります。

これが戊辰戦争の一つで『上野戦争』と呼ばれる戦いです。

上野寛永寺 つづき_f0193752_19423896.jpgこのとき彰義隊が陣取ったのが現在の西郷さんの銅像付近。

その彰義隊を壊滅する口火を切ったのが西郷さんだった

といいますから、西郷さんの銅像が今の場所にあるのも

すごい因縁ですね。

戦はわずか半日で新政府軍の勝利に終わり、

彰義隊はほぼ全滅し敗走します。


ここで生き延びた彰義隊は船で平潟港(現在の北茨城)へ逃げ、いわき方面と会津方面へ

流れてゆくのですが、この平潟港を200年前に開いたのも河村瑞賢でした。

まさか瑞賢も自分が開拓した航路がこのように使われるとは想像してなかったでしょうね。


その後、西郷隆盛も『西南の役』によって逆賊として、51歳の生涯を鹿児島城山で終えます。

上野の山に銅像が竣工されたのは、西郷さんが賊名を除かれ名誉回復した後の明治30年に

なってからです。
上野寛永寺 つづき_f0193752_1958404.jpg
そして、西郷さんの銅像のすぐ後ろには、

ここで戦って敗れた彰義隊の墓

ひっそりと建っています。

あの世でも敵同士なんでしょうか?

それとも仲良くやっているんでしょうかね?


上野寛永寺 つづき_f0193752_20431120.jpg

実は、この上野戦争が起こったために、寛永寺のほとんど全山が焼失してしまったのです。

徳川家の菩提寺焼失のきっかけを幕府軍が作ってしまうとは、なんという皮肉でしょうね!

それによって、寺の境内地のほとんどが明治政府に没収されてしまうことになります。

後の第二次世界大戦の空襲でも大きな被害を受けますが、それでも上野戦争がなかったら

上野の街は今とは随分違っていたのではないでしょうかね。


でも、もし寛永寺が昔のまま残っていたら、都内有数の歓楽街としての今の上野はなかった

わけで、のんべえの楽しみも減っていたということですねえ・・・・。


ところで、『上野の山』って言いますよね。

この『山』って、もしかして『東叡山』の『山』の意味なんでしょうか?

上野に山はなさそうだし、『成田山』だって山の上にあるわけじゃないけど『成田山』だし、

『上野の山』っていう表現は、そこがお寺だったという証し何でしょうかね~~~



なんてことを考えながら、現在の上野の繁華街を見下ろすのんべえでした・・・・・・
上野寛永寺 つづき_f0193752_20165733.jpg
この通りが『上野広小路』。

正面方向が江戸城ですので、寛永寺参りの将軍様の行列がこちらへ向かって進んで来ていた

いにしえをご想像くださいませ。




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by sakenihon | 2009-01-26 22:49 | 日本の歴史  

上野寛永寺

河村瑞賢が上野寛永寺の瓦の修復に凧を使ったというエピソードをご紹介いたしましたが、

脱線ついでにさらに脱線させていただきたいと思います。

そもそも『上野寛永寺』って、みなさまご存知でしょうか?

日が沈んだ後の時間、のんべえが都内で最もお世話になったのは上野あたりです。

多少の土地感はあるつもりですが、『寛永寺』を含めて上野にあるお寺って記憶にありません。

ところが、調べるとまたビックリ! 

是非『上野寛永寺』についてご紹介させてください。

きっと上野の見方が変わりますよ!


上野寛永寺は正式には『東叡山 寛永寺』といいます。
上野寛永寺_f0193752_18173368.jpg

では、どこにあったのか?

上野にありました!

というよりも上野全体が寛永寺の境内だったというべきなのです。

現在残っている主な建物は、不忍池の真ん中のあたりの小島にある小さな『弁天堂』

西郷さんの銅像の後ろあたりのある『清水観音堂』と、上野動物園の中に『五重の塔』

などです。

現在の『東京国立博物館』の場所が寛永寺の本堂の跡地だそうです。

下の見取り図でわかるとおり、なんと不忍池からお隣のJR鶯谷の駅前までがすべて寛永寺

だったのです。 とてつもない広さのお寺だったんです。 

ですから、上野に寛永寺以外のお寺はないのですね。
上野寛永寺_f0193752_1827285.jpg

どうしてこんなに大きなお寺ができたのか?と不思議におもいますよね。

このお寺は天台宗の『天海大僧正』という僧が徳川二代将軍秀忠公と相談して、徳川家の

安泰と江戸庶民の平安を祈る道場(祈願所)として創建したのが始まりだそうです。

その後、三代将軍徳川家光によって寛永二年(1625年)に正式の寺院として発足し、

歴代将軍によって次々に整備・拡大され、徳川家の菩提寺も兼ねるお寺なったということです。

『東叡山』とは『東の比叡山』の意味が込められ、造営も比叡山延暦寺にならったそうです。

『延暦寺』の『延暦』は782~805年の桓武天皇時代の元号です。

これに対して『寛永寺』の『寛永』は徳川三代将軍、家光公の時代を現わす元号です。

元号をお寺の名前にするには、天皇の許可が必要になります。

ここからも普通のお寺ではない、ということがわかりますね。

また、陰陽道上では上野が江戸城の鬼門(北東)に位置し、寛永寺はその鬼門封じの意味も

あったというのが定説のようです。


上野寛永寺は徳川家菩提寺として、四代家綱、犬公方五代綱吉、暴れん坊将軍八代吉宗、

十代家治、十一代家斉、十三代家定の六名の将軍の御霊廟
があり、重要文化財にも

指定されています。

また、十三代家定の御台所天璋院篤姫も家定とともに寛永寺に眠っておられるそうです。

芝の増上寺も徳川家の菩提寺で、寛永寺とほぼ交互に歴代将軍が葬られたそうです。


不忍池の池の中の『弁天堂』『琵琶湖竹生島(ちくぶじま)の宝厳寺(ほうごんじ)』

見立てて造られ、西郷さんの銅像の後ろ側の『清水観音堂』は京都の清水寺を模した舞台造り

となっています。

《清水観音堂は焼失せず建立当初のままの数少ない建築物:重要文化財です。》
上野寛永寺_f0193752_19183656.jpg

現在の東京国立博物館から噴水にかけた場所のあった『根本中堂(こんぽんちゅうどう)』

は五代将軍徳川綱吉によって建立され、間口45.5m、奥行き42m、高さ32mの大伽藍で

まさに江戸随一の建物でした。(時代から考えて、瑞賢の凧の話はこの堂ではありません。)


上野から秋葉原へ向かう途中、御徒町あたりに『上野広小路』という地名がありますよね。

この『広小路』の名前の由来は、徳川将軍が寛永寺へ参る時に使うために道幅を広げたこと

によるそうです。

確かに上の地図を見ると広小路の延長線が噴水から国立東京博物館

つながることが明らかにわかりますね!。 (すっごい納得!ですよね。)




のんべえもつい最近まで『上野寛永寺』の名前も知りませんでした。

こんなに近くにこんなに知らないことがあったなんてね。驚きです。

これも『日本酒』を起点としての興味のお陰で、ありがたいなあと思います。

脱線続きの寛永寺の紹介だけでずいぶん長くなりすぎました。

が、まだもう少し続きがあります。

でも、そろそろ一杯やりたい時間になってしまいました。

続きはまた明日にします。 









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by sakenihon | 2009-01-25 20:29 | 日本の歴史