東廻り海運では堅牢さと航海技術の優秀さで伊勢近辺の船を使いました。
今回はもっと要求レベルが高いし、もっと広い選択が可能です。
そこで、瑞賢が選んだのが【塩飽衆(しわくしゅう)】でした。
徳川封建制下では領土は幕府直轄の「天領」とそれ以外の「大名領」が原則。
ところが、どちらにも属さない一種の「自治領」が存在したらしいのです。
現在、岡山と高松を結ぶ瀬戸大橋が通る”与島”とその西側に連なる本島・牛島・広島など、
二十以上の島を塩飽諸島と呼びます。

秀吉の小田原攻め、朝鮮出兵などに加勢して手柄を立てたことで、秀吉から特別の加護を
受けました。
秀吉は中心的な島民650人(塩飽衆)に朱印状を与え、独自の自治を許したのです。
その後徳川家康・秀忠も同様の取り扱いを許しました。
彼らは日本一の航海技術と堅牢で精密な船舶を持っていただけでなく、人心が純朴だったようです。
瑞賢は西廻り海運において、彼らに白羽の矢を立てました。
何かの事業を行う時、『人・物・金』が重要といわれます。
瑞賢は、とりあえずこれで”人”については選択を終えたのでしょう。
幕府も塩飽衆のことは十分知っていたでしょうから、反対はしなかったでしょうね。
塩飽衆は全盛期の元禄期には船数200槽、船員3000人まで拡大し全国で活躍していました。
彼らの足跡は津軽・松前まで残っているそうです、
彼らの操船技術はその後も進歩し続け、日本の海運に大きく貢献したようです。
咸臨丸のアメリカ航海時の水夫50人中35人が塩飽衆だったと聞くと驚きます。
明治以降の海軍でも塩飽衆出身者が活躍したということです。
また、彼らは金毘羅信仰が厚く、金毘羅の旗を押し立てて各地の港に寄港しました。
金毘羅参りが盛んになるのは江戸中期からですが、金毘羅信仰拡大にも塩飽衆の影響が
大きかったようです。
※今回の記載内容は「北前船 寄港地と交易の物語」(無明舎出版)からの受け売りです。)
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▲ by sakenihon | 2009-08-21 02:36 | 日本の歴史